ローデシアからジンバブエに – 国旗には世界遺産を特徴的に

ジンバブエという国名の原義は最大部族ショナの言葉で「大きな石造りの家」。人口約1300万人。宗教はキリスト教と伝統宗教。公用語は英語、ショナ語など。19世紀後半に英国の南アフリカ会社の支配が確立し、1923年に英植民地に。国土の大半は白人農場主の私有地になった。65年、白人強硬派が国名をローデシア共和国として一方的に独立宣言し、黒人側はゲリラ戦を展開。79年に英国の調停で黒人多数派支配への移行を定めた協定が成立。80年にジンバブエ共和国として独立。同年、ムガベ氏が首相に就任し87年から大統領。つまり、ムガベ氏は独立以来、一貫してトップの座にあるということ。


ジンバブエの国旗。

英領ローデシア時代(1964~68)の旗。
1964年の東京オリンピック開会式にはこの旗で参加。 

白人中心のローデシア時代の国旗。
なかなか秀麗なデザインのこの旗は一部のマニアには好評だった。

いま少し、ジンバブエ独立への歩みを振り返ってみよう。

現在のジンバブエ、マラウイ、ザンビアにあたる地域は1850年代にスコットランド人探検家デイヴィッド・リヴィングストンによって探検が行われた。ザンビアの都市は今もその名がある。ヴィクトリアタキのすぐ近くでジンバブエ領にごく近い人口10万人程度の町だ。


リヴィングストン

南アフリカ地方の開拓は、英領ケープ植民地の首相にもなり、「アフリカのナポレオン」と呼ばれ、英国「3C政策」の中心人物の一人だったセシル・ローズ(1853~1902)によるところが大きい。ローズはオランダ系のボーア人による植民地国家トランスヴァールやオレンジ自由国へ圧力を加えつつ、カイロを最終目的に北方への開拓に挑戦、1889年にイギリス南アフリカ会社が設立された。同社は翌年、マタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得、両地方を併合して、ローズの名から「Rhodesia(ローズの家)」と名づけ、さらに1890年には現在のザンビア南部にあたるパロツェランドでも鉱山開発権を獲得、北方へと大きく勢力を伸ばした。

しかし、マラリアが多発し、インフラ整備が遅れたままでの鉱山開発は容易に採算に合わず、第一次ボーア戦争でローズは失脚し、同社は農業植民へと重点を移し、現在のジンバブエ地方(南ローデシア)を中心に白人の植民を進めることとなった。1925年には今のザンビア地方(北ローデシア)で豊かな銅鉱山が発見され、開発は一挙に進んだ。そこで、南北ローデシアに現在のマラウイ(ニヤサランド)を含めた合併話が進み、1953年にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。

しかし、人種差別(アパルトヘイト)政策にあえぐ黒人たちの不満が高まり1963年には連邦を解消、1964年10月24日、東京オロンピック閉会式の日に北ローデシアがザンビアとして独立を果たした。

南ローデシアでも黒人の抵抗運動が強まり、1961年にはソ連の支援でジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が、1963年には中国の支援でジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)がそれぞれ結成されゲリラ戦をはじめた。ジンバブエの国旗にある「赤い星」はその名残と言っていい。

一方、白人たちはローデシア戦線を結成、1964年には同戦線を率いていたイアン・スミスが南ローデシア植民地政府首相に就任して黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧し、世界から孤立した。当時のローデシアの人口は610万人。内、白人はわずかに27万人に過ぎなかった。

イギリスは黒人の参政権を認める形での独立を強く求めたが、スミス政権はこれを拒否。1965年11月11日に一方的に独立を宣言し、緑を両脇に置いた白い旗(ここまではナイジェリアの国旗と同じ)に紋章を付けたデザインの国旗を採択した。国連はこれを激しく非難し1966年に部分的経済制裁を、68年には全面経済制裁を実行したが、路線を同じくする2つの隣国・南アフリカ共和国とポルトガル領だったモザンビークが同調せず、殆ど効果が無かった。逆に、ローデシア経由で南アやモザンビークのベイラやマプートから銅鉱石を輸出していたザンビアが打撃を受け、中国の援助によるタンザン鉄道の建設へとなっていった。

1975年にモザンビークが独立すると黒人側による反白人政権ゲリラを支援し始めた。

これより前、1963年、東京で開かれた世界青年会議(WAY)執行委員会に参画した私はジンバブエという呼称があり、それが10世紀ころの黒人古代国家に由来するなめであることを初めて知った。独立と白人への抵抗運動を展開している黒人青年がWAYの人権委員会で、自国の政情と英国の狡さを懸命に訴えたのであった。その後、1978年にベルギーのリェージュで開催されたWAYの総会では、ローデシア(ジンバブエ)からの参加者が一層数を増し、有色人種としての日本人ももっとアフリカに関心を持ってほしいと、強く迫られた。この問いの出会いがなかったら、1984年の「アフリカの飢餓」の年に私は安倍晋太郎外相(当時)にザンビア、モザンビーク、エチオピアなどサブサハラといわれるアフリカ諸国を、日本の外相として初めて訪問するように働きかけなかったし、随員として同行もしなかっただろうし、外務省といっしょに「アフリカへ毛布をおくる会」(森繁久弥会長)で実行委員長を務めるということもなかったかもしれない。

70年代末、今度は、アメリカが調停に乗り出し、1979年には国名をジンバブエ・ローデシアと改称。黒人の参政権を認めるが、政府閣僚には多くの白人が関与し再編成される国軍も白人主体となるなど白人の既得権益が保障されたままだった。

セシル・ローズの路線がそのまま続いていたのだ。ローズは徹底した帝国主義者であり、アングロ・サクソン人優越主義者(生涯独身)。600万ポンドに及ぶ膨大な遺産の大半をオックスフォード大学に寄贈した。大学ではローズ奨励基金として、現在も毎年多くの学生に奨学金を提供し続けているが、遺言により、ドイツ人以外の外国人にはこの奨学金制度は適用されていない。

話をまた70代末に戻す。このころ黒人の抵抗運動はさらに激化、白人政権は立ち行かなくなり、1980年にジンバブエ共和国として正式に独立した。

国旗は、旗竿側に画かれている、ユネスコの世界遺産に登録されている石の彫刻の鳥(Zimbabwe Bird)が特徴。この鳥はグレート・ジンバブエ遺跡で発掘された彫像(チャプング)に由来するもので、ジンバブエが世界に誇る国家の統一と栄光のシンボルとされ、5色は、緑がジンバブエの農業と周辺部、黄色がジンバブエの豊かな天然資源、赤が独立解放戦争で流された血、黒がアフリカ先住民の伝統と民族、そして白は平和を表すと公式に発表されている。

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