親日派の政治家・金玉均と朴泳孝の亡命

日本に亡命した人物としては、韓国で政治運動をしてきた金玉均(キム・オッキュン 1851~94)の例もある。日本では東京や札幌、小笠原の父島などを転々とした後、このままではならじと上海に渡った。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客・洪鐘宇にピストルで暗殺された。遺体は清国の軍艦で朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。すなわち、遺体はバラバラにされ、「胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された」という。


現在の韓国(大韓民国)の国旗「太極旗」

左は、日本の日刊新聞「時事新報」1882年10月2日付で報道された、朴泳孝ら使節団が日本で使った国旗との報道。中央は、清国・李鴻章編『通商章程成案彙編』(1886年)収録。文中には「大清國属」の文字が見えるとある。右は、 ソウル大学校奎章閣所蔵の御旗「太極八卦図」。太極旗以前に太極図を旗として使用したもの(以上はウィキペディアによる)。

49ヶ国150旗の1つとして掲載されている「太極旗」。2003年にソウルの古書店ARTBANKが入手した。その刊行年が正しければ最も早く太極旗を伝えたものとなる。Flags of the Maritime, 5th.ed., Bureau of Navigation, Secretary of the Navy, Washington.D.C., july 1882 収録。(ウィキペディアから)

1882年、金は、名門の子弟でその若き盟友ともなった朴泳孝(パクヨンヒョ 1861~1939)と共に、開化党(独立党)を結党した。しかし、1884年12月に甲申政変を起こして閔妃派からの政権奪取を図るも失敗、日本に亡命した。金は都内、小笠原の父島、北海道などに隠れるのだが、最終的には上海に逃れ、そこで刺客に惨殺された。そのあたりについては、毎日新聞の記者だった青柳緑さんが書いた『李王の刺客』という、お勧めしたいすばらしい小説がある。朝日新聞の1千万円懸賞小説の募集で、三浦綾子の『氷点』に次いで次席になった名作。青柳さんは同じ毎日新聞出身で我が5年間お世話になった大森実さんとは親しく、その関係で私は若いころ何度もお目にかかりいろいろご指導いただいた方だ。金の命運については同書に譲りたい。

他方、朴泳孝は福澤諭吉と親交を結び、その支援を受けた。1882年7月、壬午政変の謝罪のために東京に派遣された修信使(副使は金晩植と金玉均)として向かう船上(日本から派遣された明治丸)で考案したのが、現在の韓国の国旗「太極旗(テグキ)」のオリジナルとされる。そのデザインについては皇帝からの許しもあったと伝えられている。


朴 泳孝(1932)

1997年8月8日に東京都立中央図書館で関連する記事を見ることができた。1882年10月2日付時事新報。ちなみに、時事新報はこの年の3月に東京で創刊されて1936年まで続いた日本語の新聞。この記事で、修信使・朴泳孝の日本訪問を称揚し、国旗の制定に至る背景を説明している。

朝鮮には國旗と云べきものなきに今度支那より來りさる馬建忠が朝鮮の國旗は支那に從ひ三角形の青地に龍を書くべし本國支那は黄色を用るども朝鮮は支那の東方に當る那たるを以て東は青色を貴ぶの意により青色を用ふべしと指示したるに國王は大に之を墳み決して支那の國旗に倣ふべからぬとして四角形の玉色地に太極の圖(二つ巴繪)を青赤にて書き旗の四隅に東西南北の陽卦を附けたるを自今朝鮮の國旗と定むる沙汰せられたりとあり(原文のまま)

韓国では20世紀の初め、未だ近代化が進まないうちに隣国日本の急激な発展に巻き込まれ、100年ほど前の、1910年には日本に統合されてしまった。日本がナショナリズムの昂揚期にあり、隣国はこの国旗の制定に見るようにナショナリズが始まったばかり、近代化は大きく遅れていた。

帰国後は漢城(その後の京城、現在のソウル)判尹となり、開化政策を進めるが守旧派である事大党の抵抗で挫折。さらに1884年12月に閔妃派を倒すべくクーデターを企図したが、失敗(甲申政変)、日本へ亡命した。東京では福沢邸(慶應義塾に隣接)に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

1894年に甲午改革が始まると、内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、翌年、謀反の疑いをかけられ、日本に再亡命した。その後1907年にまた韓国に戻り、朝鮮最後の首相であった李完用内閣の宮内府大臣となるも、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑となった。

日本の近代化をまねた朝鮮の改革をというのがその志であったとされる。

その後の韓国民の苦労を思う時、朴泳孝や金玉均の努力は、冷静に見てどう評価すべきなのだろうか。

話を戻す。福沢諭吉邸で行われた金玉均の法要には朴泳孝も参列した。1910年の日韓併合の16年前のことである。朴は日韓併合後には侯爵となり、朝鮮貴族会会長、朝鮮銀行理事、朝鮮経済会会長、朝鮮維民会会長、東亜日報初代社長、朝鮮人産業大会会長、朝鮮倶楽部の発起人、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問、東光会朝鮮支部初代会長、貴族院議員などの輝かんばかりの要職を歴任した。いまだ歴史的評価は固まってはいないが、日本の朝鮮統治にあたっては最大の功労者と言ってもいい人物である。それだけに、今日では歴史的評価をめぐって、日韓間で最も評価の別れている人物ともいえよう。

なお、ウィキペディアの最新版には、「太極旗」の始まりについて、次のような興味深い話が出ている。韓国の専門家にでも詳しい論文を期待したい。

朴泳孝がその4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスに八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。

8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したとされる。

翌1883年旧暦1月27日(3月6日)、統理交涉通商事務衙門の指示によって八道四都に通知され、太極旗が正式に国旗として使われるようになった

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