これだけ国旗が変わるほど時間がかかった領土問題

映画にもなった有名な「アラモの戦い」(1838)を経て、アメリカとメキシコ(米墨)両国は1848年にグアダルーペ・イダルゴ条約を締結した。アメリカの西部進出は大きく進んだ。

アメリカとカナダとの国境は大部分が北緯49度線、東部は5大湖とセントローレンス川。そして南の隣国メキシコとの国境になっているのがこの条約によるリオ・グランデである。この川は遠く米国のコロラド州から始まり、今でもこれが両国の国境になっている。


1893~1916年のメキシコの国旗

1916~34年のメキシコの国旗

1934年から現在に至るメキシコの国旗

ユタの州昇格で45星になった1896年からの「星条旗」

オクラホマの州昇格で46星になった1908年からの「星条旗」

アリゾナとニューメキシコの州昇格で1912年から48星になった「星条旗」

アラスカの州昇格で1959年から1年間米国旗だった49星の「星条旗」

ハワイの州昇格で1960年から現在までの50星の「星条旗」

「リオ」はスペイン語の川、スペイン語では単語の最初にくるrと単語の中ではrrと綴る部分は、下をトレモロさせて発するので、「ルリオ・グランデ」のような発音になる。アメリカ人はしばしば「リオ・グランデ・リヴァー」というが、これでは「大河川」でありおかしい。

それはともかく、その後この大河の一部で奇妙な国境紛争が発生し、両国は60年をかけて解決した。

テキサス州の「ホーコン・トラクト Horcon Tract」と呼ばれたこの地域は、たかだか日比谷公園の約2平方キロにも満たない、165ヘクタールの土地。ちなみに、北方4島はその3000倍もの広さ(竹島の2万倍、尖閣諸島の2千倍)もある。両国で「猫の額 el chamizar」とまで言われた小さな土地をめぐっての国と国の交渉である。しかし、領土となるとこれはもう主権の問題で、双方とも簡単には譲れないのは当たり前であり、世界中でよくある話。

この付近でリオ・グランデは大きく蛇行してメキシコ領に食い込んでいた。そこで、アメリカの「リオ・グランデ土地灌漑会社 (Rio Grande Land & Irrigation Co.)」は日露戦争の翌年に当たる1906年、最狭部を繋いで、川にバイパスを構築した。このため165ヘクタールの土地がその南側に孤立した形となり、川に遮られて北側には行けなくなった。

1929年になって、双方を結ぶ吊り橋が完成し、南側のリオ・リコよりやや北側に国境の町ができ、娯楽施設が活気を呈するようになった。かのアル・カポネもこの町が気に入り、何度も訪れたと伝わっている。

しかし、吊り橋の南からやってくる人たちはスペイン語を話すメキシコ人たちであり、アメリカの人々の関心からも次第に消えてしまっていた。ホーコン・トラクトの名はリオ・リコ(豊かな川)と呼ばれるようになっていた。

解決に至るきっかけは、1967年、米国のジェームズ・ヒルというアリゾナ州立大学の地理学者の論文。川の流れの推移に伴うホーコン・トラクトの地理的変化について、アメリカの領土が、メキシコ政府の支配下に置かれてきたという事実を論証する論文を発表した。

その論証力に、両国政府はもとより両国民、地元住民らが感服し、これが端緒となり両国の交渉が進捗、3年後、米墨国境に関する条約が改定され、ホーコン・トラクトは長年の実績からリオ・リコとしてメキシコに割譲されることになり、同条約は77年に発効した。

最終的にこの領土問題が解決した際、少しややこしかったのは問題と住民の国籍問題。問題発生から60年以上経った1977年以前にこの地域で生れたた人は、米国の国籍に関する法律(出生地主義)によって、アメリカ国籍を得られることになり、最終的には本人とその家族、計約 1,000 人が米国籍になった。米国は領土を失ったが、米国籍だった人々とその家族の国籍を保持するという形で妥協した。

振り返って北方領土であるが、4島が返還されたら、現在そこに住んでいる人たち(そのほとんどがロシア国籍、ほかには若干の外国人労働者)はそのまま日本の北方領土に継続して住むことを認められるし、ロシア国籍を維持することもできる。政治的権利は日本国籍を取得すれば当然、持ちうるものであるが、交渉の過程でおそらく特例的に日本国籍を取得しやすい方策がまとまるのではないか。今からでもしっかり研究しておいても早すぎまい。

努力と工夫と忍耐こそが、領土問題を解決する。米ソ冷戦時代にはとても手のつけられる状況になかったのが北方領土問題。1991年のソ連崩壊からまだ4半世紀も経っていまい。あせらず、落ち着いて話し合い、この問題の解決が双方にとってのプラス・サム・ゲームになることは明らかであり、知恵を出し合おうではないか。

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