オランダ国旗物語① 断ち切れぬオレンジ色への思い

オランダ(ネーデルランド)地方は15世紀末からウィーンのハプスブルク家に属するスペインの領土として扱われていた。しかし、スペインによる重税政策への反発と、カルヴァン派(利潤追求を是とする考え方)が多数という人口構成が、カトリックを強制するスペインとの決定的に対立に至り、1568年にオランダ独立戦争が勃発するに至った。


オランダの国旗

日本の国旗

オラニエ・ナッソウ公家の紋章

独立戦争の先頭に立ったオラニエ(オレンジ)公ウィレム(ウィリアム)Ⅰ世の紋章の色に由来したもの。ここの紋章から色を採ったので、「プリンスの旗 (Prinsenvlag)」と呼ばれた。この戦さが後に「80年戦争」と言われるほど長期化し、「世界に冠たる」オランダの衰退につながった。


1630年ころまで国旗として使われていたオレニエ公(プリンス)の旗

長期化した戦争でまず、カトリック教徒の多い南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)が、この戦いから脱落した。公式には1648年のウェストファリア条約でオランダの独立は承認されたが、そのときまでには商工業や貿易によって急速に国力をつけ、1609年に東インド会社を中心に、豊富で、当時最新鋭の装備をそろえた海運力と海軍力を活かして「七つの海」に進出する強国になっていた。

しかし、オランダには政治的宿業とも言うべき大商人を基盤とする分権主義者が集まるホラント州議会と総督オラニエ家を中心とする集権主義者たちによる分裂・対立が続き、165254、1664年のニューアムステルダム襲撃事件に短を発した1665~67年の第2次、1672~74年の第三次英蘭戦争で、オランダは多くを失ったのであった。

それでも、17世紀初頭以来、オランダは東インド各地でポルトガルの植民地を襲い、香料貿易の主導権を奪い、黄金時代を迎えた。しかし、この3度にわたる蘭英戦争で勢力を減退させ、18世紀末のフランス大革命では、仏軍の侵攻のもとに潰え、バタヴィア共和国となった。ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトが国王となり、さらにはフランスの直轄領として併合された。

これによって世界からオランダの三色旗が消え、わずかに極東・長崎の出島でのみ、掲揚されるだけとなった。鎖国下の日本が欧米で唯一オランダと外交・通商関係を維持したのは17世紀初頭において最も活発な海運国であったことを日本は適確に見ていたからであろう(林健太郎『世界の歴史』上)

ウィーン会議では現在のベルギー、ルクセンブルクを含むネーデルラント王国が復活し、オラニエ・ナッサウ家が正式に王位に就いた。ただし、ベルギーは1830年にオランダに対して分離独立のために武力闘争を起こし、翌年のロンドン会議で承認され、新たな王家が樹立された。1839年、オランダはベルギーの独立を承認した。

1648年のウェストファリア条約の頃から、オレンジ色は、染めにくい、海上で明視度が劣る(識別しにくい)、退色しやすいため赤に変わったとも言われている。また、オランダはスペインからの独立当時は共和国の型式で、オラニエ公は「市民のリーダー」のような存在だったが、実際にはその地位は世襲とされ、1815年のウィーン会議で正式に王国となり、今日に至っている。

国旗は翌1816年3月16日、勅令によって復活した。基本的には赤白青だが、その後も好みや王室との距離を反映してかオレンジと赤の2つの三色旗が用いられてきた。こした混乱傾向を是正するため、1937年にウィルヘルミナ女王の勅令より、オレンジではなく赤白青の横三色旗をあらためて国旗と制定した。それでも、オレンジ色の旗はその後も使用され、後述するように、南アフリカ連邦時代(1928~94)の旗の中にも使われたし、今日のNYの市旗にも用いられている。また、サッカーではオランダ代表はオレンジをチームカラーとしている。

オランダの国歌は「赤は多くの戦いにのぞんだ国民の勇気を、白は神の永遠の祝福を待つ信仰心を、青は祖国への忠誠心をあらわす」と謳っている。

そのオランダに皇太子殿下、同妃殿下が新国王の戴冠式参列のため向かわれる。雅子様の健康の復活は国民的な期待だが、中には、国内での公務をしないで海外旅行かというこころない声があるのも事実だ。このオランダ訪問が健康面でも転機となることを祈りたい。

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