相次ぐ政変の50年でも変わらなかった国旗 – 中央アフリカ共和国

旧フランス領赤道アフリカ地域の植民地は、「アフリカの年」といわれた1960年に、それぞれが独立してチャド、コンゴ、ガボン、中央アフリカの名で別々の共和国となった。

しかし、初代の中央アフリカ共和国首相になったバルテレミー・ボガンダは、フランスの統治を受けていたこの4つの地域を何とか一つの国として独立させたいと努力を重ね、国旗も自らデザインした。

旧宗主国フランス国旗の3色(青白赤)と、アフリカ諸国の国旗に共通の赤黄緑を合わせて考案したもので、4つの地域が、旗面の中央を貫く赤で強く結びつくという理想を表わしたものだ。

その後、赤は愛国心、青はフランスとの友好と希望、白は純粋さと理想、緑は農業と富、黄色は地下資源を表わし、星は自由と独立の象徴と説明されている。

この国旗はその後のこの国の激動(後述)にも関わらず、50年以上、掲げられてきている。

すなわち、1960年8月、独立した時は、ダヴィド・ダッコが初代大統領に就任したが、5年余が過ぎた1965年12月にダッコの従兄弟であるジャン=ベデル・ボカサ中佐(参謀総長)による軍事クーデタでダッコ政権が転覆。翌月、同中佐が大統領に就任、以後、独裁政治が開始された。

1972年には、ボカサが終身大統領となり、1977年12月4日には国家予算の1/4に相当する2000万ドルをもかけたナポレオンの先例を思わせる戴冠式を行い、中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世となった。

1979年1月、首都バンギで学生たちを中心とし、小学生まで含む大規模なデモが行われ、やがて暴動にまで発展した。ボカサは首都の小中学生に自らデザインした制服の着用を義務化しようとしたのだが、これが滅法不評判で、この制服は皇帝一族が所有したり、関係する工場や店の製品を買わせるものであると大きな反発を招いたのだった。もちろん、日頃のそのほかの不満も重なっていた。結果は悲劇だった。100人の小学生を含む400人の死者が出たとされる。しかもこの時ボカサが投入したのは皇帝の親衛隊と、極秘に導入したザイール(現コンゴ民主共和国)の軍隊であった。

この事件を受けたフランスは政策を転換した。中央アフリカへの軍事援助は停止され、3ヵ月後、ボカサによる子供の殺害が国際的に確認され、すべての援助が停止されるに至ったのであった。

それでも、この国旗が変更されることはなかった。

しかし、1979年9月、ボカサ皇帝の外遊中にクーデタが発生。フランスの介入で共和制が復活したが、依然、政局は不安定(詳細は次回)のまま、2003年5月にクーデタで政権を奪ったボジゼ元参謀長が大統領になった。が、今回、そのボジセ大統領も亡命を余儀なくされてしまった。

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