世界遺産アンコールワットはカンボジアの誇り

カンボジアのポル・ポト政権(1975~79)で副首相だったイエン・サリ(87)が3月14日、プノンペンの病院で亡くなった。大量虐殺に関わった罪に問われ特別法廷で公判中だった。

妻のイエン・チリト元社会問題相(81)のほうがより残虐だったという見方もある。しかし、認知症のため2012年9月に釈放。残る被告のチア氏と政権ナンバー5のキュー・サムファン元幹部会議長(81)の審理は今後も継続されるが、高齢で体調も不良で見通しが立たない。


イエン・サリ元副首相

最近のアンコールワット(ウィキペディアより)

イエン・サリ元副首相は1998年に死去したポル・ポト元首相や同じ法廷で起訴・公判中のヌオン・チア元人民代表議会議長(86)に次ぐ同政権のナンバー3。これで、200万人ともいわれる犠牲者についての真相解明は、一層難しくなったとみられる。

そのカンボジアの国旗、現在の国旗はもちろん、いつの時代にもアンコールワットが中心だった。民族の誇りであり、世界文化遺産である。政治も内戦も乗り越えた存在ということだろう。

アンコールワットは12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、30数年の歳月をかけて建立されヒンドゥー教寺院であり、カンボジア民族随一の誇りです。王都がプノンペンに移ると、一時は忘れられた存在になったこともあったが、1546年から64年の間に、アンチェン1世が第一回廊北面とその付近に彫刻を施したり、その孫にあたるソタ-王が仏教寺院へと改修し、完成させた。


左から、フランス統治時代(1863~1948年)、シアヌーク国家元首時代(1948~70年)、ロン・ノル政権時代(1970~75年)、ポル・ポト政権時代(1975~79年)、ヘン・サムリン政権時代(1979~89年)、カンボジア国時代(1989~91年)、国連暫定統治機構時代(1991~93年)、フン・セン政権時代(93年~現在)

アンコール・ワット(1866年)

最初にこの場所を訪れた西洋人ポルトガルのアントニオ・ダ・マグダレーナ。1586年のこと。その後は日本人の進出も多く、1632年(寛永9年)には肥前の森本右近太夫一房が参拝したことが、中央祠堂玄関右奥への書き遺し(落書き?)で明らかだ。

1960年末までのカンボジアは小乗仏教の信仰厚い国民と、指導者ノロドム・シアヌーク殿下の施政よろしきを得て、少なくとも表面上は静かな農村の広がりと、フランスの影響の濃い都市文化が並存した落ち着いた暮らしぶりだった。私がアンコールワットを始めて訪ねたのは1968年、シエムレアプのホテルから象に乗ってというのんびりしたものだった。

しかし、70年3月のロン・ノル将軍のクーデタ以来、国中が混乱に陥り、アンコールワットはほとんど手入れをされることなく、というより、戦火の続く中で多くの破壊や略奪にあいながら野ざらしにされてきた。加えて、巨大な熱帯植物が繁茂して石組みを持ち上げ、時には一部が崩壊するなど、傷みが酷い。1980年代以降は、右近大夫の落書きも判然としなくなっていた。

この地を領有していたフランスは古くからその管理と補修に努めてきたが、中国の「4人組」時代の政治や文化大革命の影響を強く受けたクメール・ルージュ(ポル・ポト派)は、仏像や遺跡に敬意を払うことなく、手ひどい破壊行為を行なった。

1979年、ヘン・サムリン将軍を担いだベトナム軍にクメール・ルージュが首都プノンペンを追われると、カンボジア北西部にあるアンコールワットの周辺にも逃れて来た。民族の誇りであり、世界的な文化遺産であることから、攻撃にあたっては重砲の使用がためらわれたのだ。

内戦は93年10月の「パリ和平協定」で終焉した。こうした混乱にあっても、この間、各派はいずれも、アンコールワットを大きく取り入れた旗を掲げていた。そして、1992年、アンコール遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録された。

ヘン・サムリンを継いだ形のフン・セン政権下は、クメール・ルージュを完全に駆逐・消滅させた。現在のカンボジアは国内政治は一応安定しているといえよう。

こうした中で、アンコールワットでは日本(特に上智大学)、インド、フランスなど各国の資金と技術の協力をえて、修復活動を進めており、対人地雷密集地であった寺院周辺では地雷の撤去も進捗し、各国から大勢の観光客が押し寄せている。

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