コンクラーベの由来

産経新聞には4人の私好みの(失礼!)、尊敬すべき海外特派員がいる。ワシントンの古森義久、ロンドンの内藤泰朗、ソウルの黒田勝弘、そしてローマの坂本鉄男のみなさんだ。


バチカンの国旗

3月10日は坂本さんがローマから、教皇(法王)選挙を短いコラムながら、簡潔明瞭に伝えてくれた。いよいよ始まるコンクラーベ、これだけは知っておきたい。

新しい法王を枢機卿が選ぶ選挙、コンクラーベ(ラテン語で「鍵をかけて」の意味)。語源は史上最長記録となった、13世紀の法王選挙にさかのぼる。

当時、法王庁の場所はローマではなく、各法王の意思で決められていた。“事件”が起こった当時の法王庁はクレメンス4世の希望で、ローマの北約100キロのビテルボにあった。


第183代ローマ教皇クレメンス4世(在位1265~68)

1268年、クレメンス4世の死去に伴い18人の枢機卿(当時は中欧・南欧出身者だけ)がビテルボに集まり選挙を始めたが、フランス派とイタリア派に分かれて1年半たっても決まらず、まさに「根比べ」に突入した。

このため、食料などを提供していた市民が腹を立て、枢機卿らが集う宮殿に鍵をかけて閉じこめた。これがコンクラーベの語源だ。その後、差し入れる食料も減り、最後には屋根まではがしたという。

当時の枢機卿は若くて体力があったためか、さらに15カ月後の1271年9月、イタリア北部ピアチェンツァの名家出身で、博学と清廉潔白で知られた修道士が法王に選ばれ、グレゴリウス10世が誕生した。


グレゴリウス10世(在位1271~76)

この法王は自分が選ばれるまでの経過を知っていたため、法王の死去後20日以内に選挙手続きを開始することや、選ぶ際には外部との接触を断つことなど、後の選出規則の基礎を作ったのである。

コンクラーベを確立したこのグレゴリウス10世という人はなかなか元気な人だったようで、1268年のクレメンス4世の没後に開かれたコンクラーベは、3年経過してもなお教皇が決まらず、3年間空位のまま1271年にようやくこの人が選ばれた。しかし、本人はエドワード王太子(後のイングランド王エドワード1世)が率いる第8回十字軍に従軍して不在、急遽、ローマへ戻って教皇として即位した人だ。

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