国の合体で国旗も合体したタンザニア

イギリスの国旗がイングランド、スコットランド,そしてアイルランドの国旗が合体して出来たことは前回紹介しました。同じような例が、タンザニア連合共和国の国旗です。


タンガニーカ
1961~64年

ザンジバル共和国
1964年

タンザニア
1964~現在

1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがニエレレ大統領の指導により独立しました。そしてインド洋に浮かぶ島であるザンジバルは2年後、アラブ人の王の下に独立しました。もう少し詳しく見ると、タンガニーカは帝政ドイツの植民地だったのですが、第一次世界大戦の結果ベルサイユ条約でイギリスに移管されていたのでした。アフリカで一番高いキリマンジャロ山とその名をとったコーヒーで有名です。

他方、ザンジバルは中国の唐の時代のお金も出土しているほどです。ヨーロッパとの本格的な交流は1499年、ヴァスコ・ダ・ガマが訪問してから。しかし、アラビア半島から来たオマーン人によってポルトガルの勢力は追い払われてしまいました。オマーン人は奴隷・象牙・香辛料貿易の拠点として港を中心に栄え、今でもアラブの石造建築遺跡もたくさんのこっています。また、ザンジバルは白いさんご礁の美しさでも知られています。2000年、世界遺産(文化遺産)に登録されました。現在はタンザニアにおいて夕陽の名所として有名です。

ザンジバルでは1890年にイギリスの保護領になるまでスルタンの支配が続きました。その保護領にするイギリスのやり方が乱暴で、「史上もっとも短時間の戦争」としてギネスブックに登録されているほどです。

1896年、当時のスルタンの王位を奪った王の甥(おい)ハリド・ビン・バルガシュが、イギリスの退位要求をしりぞけましたが、イギリス艦隊は会場から砲撃し、わずか37分23秒で宮殿を破壊し、ハリドはドイツ領だったタンガニーカに亡命したのでした。奴隷制度が廃止されたのは1897年になってからです。

1963年、ザンジバルはイギリス連邦の一員として独立し、ザンジバル王国となりました。しかし、翌1964年1月、アラブ人の長年の支配に不満をもっていたアフリカ人が反抗し、ザンジバルで革命が起こり、王族が追放され人民共和国が成立したのです。ザンジバル人民共和国となりました。さまざまな交渉の後、タンガニーカのニエレレ大統領の主導する汎アフリカ主義の精神により両国は連合し、「タンガニーカ・ザンジバル連合共和国」となり、その後、国の名前も統合して「タンザニア連合共和国
となったのでした。

国の名称に、かつてこの地域で栄えたアザニア文化の名を加味し、タンザニア連合共和国となったのでした。このとき、国旗もまた合体して今のタンザニア国旗のデザインとなったのです。

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