万国旗余話②


運動会での定番・万国旗(ウィキペディアより)

「国際化」という言葉は、どうやら大正時代に登場し、その後、影を潜め、戦後も東京オリンピックの少し前頃から次第に用いられるようになったようです。

「国際化が急速に進行する中で、なぜ国旗にこだわるのか」という声をたまに耳にしますが、私は、「国旗を知ることはその国を知る第一歩」と心得ていますし、いつも「国際理解の窓口が国旗」と述べています。

実はきょうも、国旗について朝日新聞の取材を受けましたので、そのあたりのことはよくお話ししたつもりです。

ところで、喜多村和之広島大学教授によれば、「『国際化』という用語は、《教育の国際化》という用法で、すでに大正11~12年(1922~23年)にかけて現れているそうです。

戦後では1960年代になって出現し始め、政府公文書に限定し、その初出は1967年から1970年にかけてである」とのことです。

小欄の筆者・タディ(吹浦)も参加した「日本人の国際化研究会の成果をまとめた著作に澤田昭夫/門脇厚司編『日本人の国際化―《地球市民》の条件を探る』(日本経済新聞社 1990年)があります。その中で、伊藤彰浩広島大学教授は第1章「日本における国際化思想とその系譜」の論文で、大正時代に「国際教育推進を主張する論者の中には、それを〈教育の国際化〉と表現する人もいたと論述しておられます。

断定的なことは言えないが、これは国際化という言葉の使用例としては、おそらく最も早い時期のものでしょう。

この〈教育の国際化〉論の一例として、下中弥三郎の『日本における教育の国際化運動』(『国際連盟』1922年7月号)を取り上げてみたい」などと論述しているのです。

ただ、これより先に、徳富蘇峰主宰の雑誌『日本及日本人』の1920年春季特別号に、1913年から連載した『大菩薩峠』で近代的大衆小説の創始者とされ、大衆文学の頂点に立った中里介山(1865~1944)が『国民思想の国際化』という一文を載せているのです。

しかし、「国際化」の言葉はその後ほとんど用いられなくなり、戦後期では、「国際化」という表現は1960年代になってようやく出現し始めたようなのです。

喜多村教授の調査によれば『日本経済新聞』(1961年11月8日付)のコラムで、以下のように、「国内政策も国際化」という表現法が戦後始めて用いられているとのことです。これが戦後における「国際化」というタームの初出であるとは断言できませんが、少なくとも1960年代当初にはこの用語が使われ出していることは明らかだといえましょう。

「…現代の世界各国の経済は、相互に密接に関連するようになってきているので、国内経済政策も、それが国外面でどのような影響を与えるかについては、常に慎重な考慮を払わなければならない。いわば《国内経済政策の国際化》が進んでいる。以前であれば、国内の経済政策を外国からとやかくいわれるのは内政干渉だという反発を受け兼ねなかったわけであるが、近年の傾向としては、国内経済政策の面でも国際的協調を図ることがむしろ当然と考えられるようになってきた。…(中略)経済政策の面で国内、国際の境が次第に薄れてきていることは注目を要する点である。」(コラム『大機 小機』「国内政策の国際性」)。

第2の用例は約半年後の1962年7月15日付で、「国際競争に生きる途」と題した、池田勇人自民党総裁再選にあたって出された「12氏共同宣言」なる文書への登場です。

喜多村授は、『国際化』というこうした用例について、「注目すべき点は次の4点だ」と続けています。

① 国際化という用語がカッコ付きで用いられており、そのことはこの用語がまだ一般的に使われていたものではないことを示唆している。

②「国際化」という考え方はまず経済・政治の分野の現象を表すものとして取り上げられている。

③「国際化」の意味は、ここでは「国際政治政策」の国外への影響、経済力の強大化の理論にもとづいた国外経済との調整・協調の必要性と、経済政策の面での「国内、国際の境」が薄れてきていること、という意味で用いられている。

④「国際化」という用語は1960年代には、経済専門紙の『日本経済新聞』に限って現れており、『朝日新聞』等他の一般紙にこの用語が現れてくるのは、さらに約6年遅れた、1967年以後になってからのことである。

つまり、最初は国や国の経済が世界に通用するようになることを意味するかのような用例だったものが、やがて一般紙誌にも頻繁に登場するようになり、「日本の国際化」「日本人の国際化」、すなわち、「日本(日本人、日本社会)がもっと国際的に通用する国家(人間、社会)にならねばならない」といった議論が盛んに行われるようになり、そうした過程で、「国際化」という言葉が頻繁に用いられるようになったのでした。

ただ、これは裏を返せばそれほど当時の日本社会は国際化していなかったし、そのことが時代への対応に際し、深刻な課題になりかけていたということなのでしょう。

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