パレスチナが「国家」扱いに – 国連総会で決議へ


パレスチナの旗

ヨルダンの国旗

西サハラの旗

スーダンの国旗

第1次世界大戦時に、オスマントルコの支配に抗して立ち上がったときの「アラブ反乱旗」

パレスチナが「国家」として扱われるよう、国連総会に提案された。11月28日付読売新聞によれば、この提案はイスラム諸国やフランスを初めとする欧州諸国等過半数の賛成を得られる見通しだという。

しかし、これにはイスラエルはもちろん、アメリカが反対であり、これによって国連の正式な加盟国になるということストレートに繋がるとは言えず、読売新聞も、逆に、両国などとの「和平機運は一層遠のく恐れがある」と心配している。

わが国は1977年にパレスチナ(PLO)の事務所設置を認め、81年にはアラファト議長が来日している。この事務所は資産難のため95年に閉鎖されたが、同じ年、日本の最高首脳としては初めて村山首相がパレスチナを訪問している。また、98年には、ガザに外務省の出張駐在官事務所を開設した。

2002年には川口外相が訪問、翌03年にはパレスチナの駐日常駐総代表部もできた。日本との要人の往来は恒常化し、この年にも川口外相が訪問、05年には町村外相、06年には小泉首相、07年には麻生首相、今年は4月にアッバース大統領が来日し、5月には玄葉外相が訪問している。副大臣以下の訪問は頻繁に継続している。

ところで、この4色による旗は第1次世界大戦(1914~19)のさなかの1917年、オスマントルコへの反乱(「アラブ反乱」)を指導したメッカのシャリフ(太守)フサイン・イブン・アリーによって採択されたもの。反乱自体はドイツ側についたトルコに対し、イギリスがアラブ民族主義をあおって文字通り叛旗を翻したときの旗として広く知られているもの。映画でも有名になった「アラビアのロレンス」が活躍したとされる時代のことだ。

ただ、この「アラブ反乱」旗の起源については諸説が伝えられ、やや不明なところもあり、①1909年、オスマン帝国の首都イスタンブールにいたアラブ人民族主義者の団体「文学クラブ」(アラブ知識人委員会)が、13世紀のアラブの詩人サフィ・アッ=ディン・アル=ヒーリーの詩に依拠してこの4色を選んだ、②1911年、パリにいた留学生らが結成した組織「青年アラブ協会」の手による、③イギリス外務省のマーク・サイクス卿(サイクス=ピコ協定を結んだ人物)がデザインを考案したなどと言われている。

パレスチナの旗がいつ、世界中から国旗として認知されるのか、これからも行く末を凝視してゆきたい。

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