伊藤博文の「日の丸演説」 – 補正①

小欄では、8月25〜27日までの3日間、伊藤博文の「日の丸演説」について書きました。今般、それが行われた岩倉使節団の研究において第一人者である泉三郎先生にお目にかかることが出来、新たな事実をいろいろご教示いただきましたので、前稿に大きく補筆し、修正したいと思います。


岩倉使節団メンバー。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

1871(明治4)年、横浜港を出発する岩倉使節団。山口蓬春画。

岩倉使節団には三つの目的がありました。①条約締盟国を歴訪して、「元首に国書を奉呈し、聘問の礼を収めること」、②廃藩置県後の内政整備のため、先進諸国の制度や文物を親しく見聞して、その長所を採り、わが国の近代化に資すること、③翌1872年7月1日が条約の協議改訂期限にあたるので、それまでに日本の希望するところを各国と商議する(予備交渉を行う)という3つです。このため出来たばかりの明治政府は、岩倉具視を全権とする一大使節団を米欧諸国に派遣したのです。

使節団は、当初の予定を大幅に超過し、1年9ヶ月(632日)間もかけ、欧米14ヶ国の「国家見学」を行い、文字通り世界を一周したのでした。

団長は、右大臣・岩倉具視(ともみ)(1825~83)、依然、丁髷(ちょんまげ)を結ったままのお公家さんです。ほかに副使として参議・木戸孝允(長州)、大蔵卿・大久保利通(薩摩)、工部大輔・伊藤博文(長州、1841~1909)、外務少輔・山口尚芳(肥前)が同行しました。一行は100人を超える大所帯で、後に明治政府や各界の枢要の地位に就いた人々が多数含まれています。

本稿の主たるテーマである国旗について言うならば、このとき、23日間の船旅を経て、最初に訪れたサンフランシスコのグランドホテルにおいて、若干31歳の伊藤博文副使(工部大輔)が後に「日の丸演説」と呼ばれるようになった名演説をしたのです。

一行は1872年1月15日(陽暦)、最初の寄港地であるサンフランシスコに到着。15発の礼砲で歓迎され、モンゴメリー街にある客室300という広壮なグランド・ホテルに入りました。今年9月末に私がその場所を訪ねた話は別の機会にお話します。

岩倉使節団の面々は日々、エレベータを初めとするホテルの施設やスタッフのサービスに驚嘆するばかりでした。しかし、さすがは明治を創った日本のリーダーたち、8日目の23日にホテルで開催された歓迎レセプションで、伊藤博文が実に堂々と、明治維新さなかの日本について語り、最後にそのまとめとして、採択したばかりの国旗について説明をしているのです。

ちなみに明治政府が「日の丸」を「商船に掲ぐべき御国旗」として制定したのは前年の1月、「軍艦に掲ぐべき御国旗」としてデザインがやや異なる「日の丸」を採択したのは10月でした。その制定には伊藤博文は関わらなかったようですが、実にまだ「ついこのあいだのこと」だったのです。

箱館戦争が終わったのは、1869(明治2)年5月、この時は榎本武揚以下が「日の丸」を掲げ、薩長を主体とする攻撃側は「旭日旗」を掲げていたのです。このこともいずれ詳しく書きましょう。

ですから、日本の国旗としての「日の丸」は実に新鮮だったのです。伊藤博文はその新興日本の国づくりを語り、最後に国旗を説明しているのです。

この演説は「おそらく公式の場では初めてと思われる英語でのスピーチで」(泉)のちに「日の丸演説」としてよく知られるところとなりました。

日本の国旗が何を象徴しているかについては憲法も「国旗国歌法」も規定していませんが、これは日本の公式な使節団を代表して、伊藤が説明したもので、それなりにその後の人々にも、そして「日の丸」に対する後の国民全体の意識を誘導したのではないでしょうか。


箱館戦争で攻撃を受ける榎本軍
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