60余年ぶりの和平なるか – 日本人も参戦していたミャンマー少数民族の戦い


一昨年11月に全面改訂されたミャンマー政府の国旗。

カレン民族同盟(KNU)の旗

KNUの武装組織カレン民族解放軍(KNLA)の旗。最近でも日本人の参画もあったし、旗ももしかして、日本の旭日旗の影響かもしれない。ただ、なぜか米国アリゾナ州旗ともそっくりだ

アリゾナ州の州旗

こんな気分のいい記者会見に、久々に出席させていただいた。

日本財団(笹川陽平会長)はミャンマーで長く政府軍と戦闘を続けてきた少数民族系の武装勢力10団体の代表を招聘し、18日、笹川会長は、11の少数民族武装勢力で作る「統一民族連邦評議会」(UNFC)に対して、医薬品や食料など総額300万ドル(約2億4000万円)分の人道支援を行うと発表した。12月にも1回目として30万ドル分の医薬品などを輸送する。

支援は、ミャンマー政府から「和平プロセスの一環」として合意を得たもので、政府と武装勢力との和平交渉への足がかりになるものと思われる。

ミャンマーでは長年、少数民族との紛争が続いており、本来の居住地域に住めなくなった国内避難民は100万人に上るとされる。避難民は僻地にいるケースが多いため、タイ、中国、バングラデシュなど隣接する国々から陸路で支援物資を搬送することも検討するという。

笹川会長は「ミャンマーは民主化が進む半面、少数民族との争いは終わっていない」と支援の必要性を強調した。

他方、同会長とともに会見したクン・オカーUNFC副議長は「少数民族は武力衝突の悲劇的な被害者。人道的な支援を必要としている」と話し、改革を進めるミャンマー政府との恒久的な和平の必要性や少数民族の経済的な窮状を訴え、「政府が政治的目的を放棄させようと少数民族を説得するかもしれない。国際社会が監視役になってほしい。日本政府は諸事情で私たちの問題を内政問題として関わりできないとしているが、教育、福祉、保健衛生など緊急かつ重要な人道問題が山積している中で、日本財団には援助、和平の仲介・保証をしてくれるよう大きく期待している」と訴えた。

援助から平和構築まで、こうした分野での日本財団への期待は各方面にあり、かつ、その力量が試されているように思う。ただ、日本政府がそれを傍観するだけではなく、必要な便宜を与え、協力してこそ、わが国への評価と信頼を一層高めることができるのではないか。また、日本財団はさらに実力・経験豊かな人材を充実し、この大事業を達成してほしいと願いたい。

私も単に「気分のいい」だけではなく、日本のNGOのあり方について、大いに示唆を受けた記者会見だった。

ところで、ミャンマー中央政府と60年にわたって武力闘争を続けてきたのが、カレン民族解放軍(KNLA)。日本人の参画もあったし、もしかして、掲げる旗も日本の旭日旗の影響かもしれない。

特に、高部正樹さんの活躍は知られている。幼くしてパイロットまたは歩兵などとして戦場で活躍することを夢見、高校卒業後、航空学生として自衛隊に入隊。航空学生課程を修了し、三等空曹に任官。任官後は飛行幹部候補生として、パイロットとなるため練習機での訓練を受けた。しかし、訓練中に背中を怪我し、パイロットへの道を断念、自ら除隊した。

その後、歩兵として、1988年、ソ連侵攻下のアフガニスタンで、ムジャヒディンの一派である「ジャミアテ・イスラミ」に加わり、外人部隊の精兵としてソ連軍や内戦での戦闘に従軍した。

ただ、私もバングラデシュ独立戦争のころ(1971~72)に経験したが、イスラムの人たちとの共同生活はなかなか容易ではなく、高部も東南アジアに活動の場を移した。KNLAに加わったのはソ連崩壊直後。KNLAはもちろんカレン族が中心だが、いうならば「多国籍義勇軍」。各国からの将兵が文字通りボランティ(義勇兵)として志や戦闘の目的に共鳴して集まってきて、一軍を構成しているのだ。

但し、高部自身はその後も、94年から約1年間はユーゴスラビア崩壊後のクロアチアで傭兵部隊「ビッグ・エレファント」の一員となり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に参戦している。

これが終わると、再びKNLA戻ったが、1964年、愛知県生まれの高部さんは、2007年7月44歳で傭兵生活を引退した。しかしその後も、KNLAの集会に参加したり、関連の執筆活動を続け、今でも、多くの日本の若者の間での人気はなかなかのものがある。

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