国旗で読む日本近代史① – 日英同盟締結


日本の国旗

イギリスの国旗

日英同盟締結により、1906年、英国より「ガーター勲章」を贈られた明治天皇。

日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)は、大陸への進出を確実にしようする日本とロシアの満州・朝鮮への南下政策に歯止めをかけようとする英国の国益が合致し、1902(明治35)年1月30日に締結され、即時発行した。この同盟は3年後と6年後に継続行進され、1923年8月17日に失効までの約20年間、有効であった。歴史的に見て、極東における日本の地位の向上と強化に役立ったと評価できよう。


義和団の乱

義和団が掲げた旗

義和団の乱(義和団事件、1900年)で8カ国の連合軍が出動して鎮圧し、撤兵した後、ロシア軍のみが満州から撤兵しなかった。こうしたロシアの南下を食い止め、清国での利権を確保するために英国は「栄光ある孤立」政策を捨て、義和団の乱で極東における実力を発揮した日本への接近を図った。

一方、日本では、ロシアとの妥協の道を求めるべきだ伊藤博文や井上馨らがtを探っていたが、山縣有朋や桂太郎、加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り[3]、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した


日英同盟祝賀の凱旋門。向って右側には「大阪朝日新聞」とある。
英国旗を上下正しく描いているのは立派。

日英同盟記念絵葉書

日英同盟締結を慶賀してのサラ。日本の軍艦旗(舷・海上自衛隊旗)と英国の「ユニオンジャック」を外辺にめぐらし、中央部位の上下にも半分ずつ見られる。中央は、南樺太、千島列島の一部から、台湾、朝鮮までの当時の日本の領土を描き、イギリスの領土も、アイルランド(1937年独立)全体を含んでいる。下は中央部分を拡大したもの。
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