硫黄島には「日の丸」と「星条旗」が②


第二次世界大戦当時の米国旗「48星条旗」1912~59年まで続いたデザイン。米国は両次大戦をこの国旗で戦った。

孤島・硫黄島を護る栗林忠道中将麾下の日本軍を超える死傷者を出した米軍が、擂鉢山に立てたのが、48星の「星条旗」。今その巨大なモニュメントがワシントンDC郊外のアーリントンに建っていますが、その彫像が掲げているのは、現在の50星の「星条旗」です。

また、1960年初夏、安保改定反対のデモが連日のように国会を取り巻くさなか、アイゼンハワー米大統領来日は中止されました。もし、同大統領が訪日していたらその時は49星の「星条旗」で歓迎する人と、その旗に火でもつけて反米の意思を表わす人がいたことでしょう。あの訪日中止は正しい決定だったように思います。

その49星の「星条旗」ですが、星の配列はは7×7個ですが、微妙にずれています。

アラスカの州昇格で49星になった「星条旗」ですが、これはたった1年で、ハワイの州昇格に伴う、現在の50星の「星条旗」に変りました。50星の時代はまもなく半世紀、「星条旗」でも一番長くなりました。

しかし、アメリカは、その50星の今の時代、1970年代前半にベトナム戦争で敗れ、21世紀冒頭のイラク戦争では停戦後の死者が戦時中よりも多いという苦戦を強いられてようやく撤退、アフガニスタンでのタリバーンとの戦いでも苦戦を強いられています。そして、これらの戦争ではすべて、50星の「星条旗」の下で遂行されているのです。

なお、新しいデザインの「星条旗」は1783年7月4日に「独立宣言」が発せられたことにちなんで、原則として、州昇格後最初の7月4日「独立記念日」に採択されてきました。


49星条旗 1959~60年

50星条旗 1960年~現在

1945年2月16日、栗林忠道中将麾下2万2千人の将兵が守るこの島に、米軍が艦砲射撃と空爆による激しい攻撃を仕掛け、3日後、擂鉢山(169m)の麓の浜辺に敵前上陸を敢行しました。待ち構えていた日本軍の激しい抵抗に遭い、すぐそばの擂鉢山を征服するのに6日間もかかりました。山頂に「星条旗」を掲げる写真は、米誌「Life」の誌面を飾り、その大きな像がワシントン郊外のアーリントン墓地にあります。


留守近衛第二師団長当時の本間中将

実際に掲げられた「星条旗」の星はもちろん、当時のアメリカの州の数48個です。「星条旗」を立てる有名なシーンは撮影の都合で2回、行われたのでした。米側にしてみれば、これで、3月10日の日本の陸軍記念日に東京を爆撃するという計画がかろうじて間に合いました。

日本軍で生き残ったのはわずか1,000人程度、米軍は6,821人が亡くなり、約2万人が負傷しました。擂鉢山に旗を掲げたメンバーでも、マイク・スクランク軍曹、そしてハーロン・ブロック、そしてフランクリン・スースリーの二人の兵も戦死しました。硫黄島は太平洋戦争で唯一、米軍側の死傷者が日本側を上回ったところです。

硫黄島はサイパンと東京の中間にあり、この島を押さえないとサイパンから日本本土に向う爆撃機の往復が危険なのです。米軍としては島に数本あった滑走路をどうしても確保しておきたかったのですが、3月10日にはいずれも穴ぼこだらけで使えませんでした。


西竹一と愛馬ウラヌス

戦死した中には西竹一第26戦車連隊長(1902~45.3.22)がいます。1932年のロサンゼルス五輪馬術競技、障害馬術の金メダリストです。愛馬ウラヌスを御し「I(私)」ではなく「We won」と人馬一体になっての勝利を感想で延べたことでも知られています。

先年、クリント・イーストウッド監督の2部作、すなわち、アメリカ側の視点からの「父親たちの星条旗 Flags of Our Fathers」と「硫黄島からの手紙 Letters from Iwo Jima」が大いに注目されました。また、作家・城山三郎『硫黄島に死す』を書き、ノンフィクション作家久美子は『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

アメリカ側では従軍記者のロバート・シャーロットがいち早く『硫黄島』を描いて激戦の様子を報告しています。学徒出陣でこの戦闘に参加直前に、たまたま本土に戻った人に多田實さんがいます。1944(昭和19)年の夏に爆撃で重傷を負い、内地送還となったことが運命を分けました。後に読売新聞で活躍された方で、『海軍学徒兵硫黄島に死す』と『何も語らなかった青春』を遺しています。私は学生時代にこの人に文章の書き方を教わりました。

「硫黄島の星条旗」に米国側にも特段の思い入れがあるためか、1968年に返還された小笠原諸島の返還交渉にあっては、「返還後も摺鉢山の山頂には星条旗を掲げさせて欲しい」との要求も出されましたが、日本側が拒否した、という話が伝わっています。激戦の地・硫黄島復帰にあたってのこの要求を拒否したのは日本側の矜持と言うべきで、見事な交渉だったと思います。いずれさらに調べてみたいものです。

硫黄島には今なお、推定6千体以上の遺骨が洞窟などに残されたままといわれています。私もいくつかの洞窟に少し入ってみましたが、熱気と湿気、そして何よりも毒を含む成分のガスがあって、容易には近づけませんでした。昨今、ようやくその総合的な調査と遺骨収集が開始されました。まだ数年かかると思われます。

今の硫黄島では米軍が滑走路を空母に見立て、艦載機の「タッチ & ゴー」訓練をしているほか、海上自衛隊も駐屯しています。ですから、今ではふだんは「日の丸」のみ、米軍の演習がある場合には「星条旗」も併揚されています。

友邦・日本への防衛協力のために、日夜かくも厳しい訓練をしているものかと30秒足らずのうちに次々と着地し発信する戦闘機を、10m足らずの至近距離から拝見させていただいた。

海上自衛隊員のみなさんは、たまたまこの日、演習はなかったのですが、ケリー司令官や副官たちによると、同様の厳しい任務を遂行しているとのことだった。「日の丸」と「星条旗」が翩翻と翻っていたことはいうまでもありません。

未だ取り残されたままの日米両軍将兵のご遺体に合掌して空路、島を後にしましたが、往路とは違い暴風雨の中を飛びました。なぜか私は酔わず、戦闘機乗りたちの中には、激しいゆれで完全に気分を壊した人も数名いました。そのくらい激しい訓練だったのでしょう。


硫黄島の擂鉢山制覇時に米兵たちが「星条旗」を掲げたシーン。今はその記念碑だけが残り、ワシントンDC郊外のアーリントン墓地にその実物大の記念像が立っている。

米誌「Newsweek」2011年12月3日号は硫黄島に「日の丸」を掲げるCG画像を表紙に、「日本企業」が逆襲に転じようとしている状況を特集している。
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