小笠原・父島の旗立山 – 領有権を主張する

日本政府は1876(明治9)年になって各国に小笠原諸島の領有を通告した。


日本の国旗

小笠原・父島の二見湾。左が旗立山

これよりさき、わが国の領域を表示する目的のため、幕府は国旗「日の丸」を小笠原・父島の山腹に掲揚し、海上から遠望できるようにしたのであった。

マティウス・ペリー米提督の『日本遠征記』がこの遣米使節に贈られ、その中で、小笠原島に太平洋諸島出身者や欧米系の人々が定住していることが明らかになり、幕府は主権侵害とばかりにわかにこの島に注目した。

日米和親条約批准書交換のために渡米した一行に随行し、帰国したばかりの咸臨丸は1861(文久元)年、小野友五郎を艦長に、外国奉行水野忠徳(1810~68)、ジョン万次郎らを乗せて小笠原諸島の父島と母島の巡視と探検に向かった。

急遽、1861年に外国奉行水野忠徳を咸臨丸で小笠原に派遣、調査にあたらせ、八丈島から38人を移住させたが、国内事情や外国との関係が不安定になったため、わずか10ヵ月ほどで幕府の役人も島民は引き揚げた。

その後、ジョン万次郎が近海で西洋式の捕鯨を指導したりということもあった。

ちなみに父島でペリーに応接した中心人物であるナサニエル・セーボリの7代目の子孫が、小笠原村教育委員会のセーボレー(瀬堀)孝教育課長。「高校はグアムに行き、英語で学んだ。1968(昭和43)年の本土復帰後、日本語を懸命に学んだが、アメリカ人の血は32分の1に過ぎない」と笑う。

「日の丸」を立てた場所は、父島の現在「旭山」といわれている山麓の海抜267m地点であり、文久元年12月21日(新暦1861年1月31日)のことではないかと推定され、その山を「旭山」と命名した(「咸臨丸と小笠原」(その二)小笠原村教育委員会教育長 田畑記参照)。

「旗立山」は、1927(昭和2)年3月に東京の指定文化財(旧跡)に指定されている。

しかし、山に国旗を掲揚したからと言って国際法でいう先占をなしえたということにはならず、幕府も明治政府も日本人の移民を派遣するなど、さまざまな統治行為を行い、この後、日本が本格的に小笠原を経営し始めたのは明治9(1876)年から。この年、小笠原の領有を各国に通告して、日本への帰属を確定し、以後、恒常的に日章旗を掲揚した。そして1882(明治15)年になって欧米系の島民にも全て日本国籍を与え、列強も日本の領土であることを確認している。

このように日本の領有権の確認が比較的円滑に進んだのは、英国、米国、スペインなどがすくみあっていたことと、小笠原諸島を英語でBonin Islands(「無人島」の訛った言葉)と呼ばれていたことも、日本への帰属を有利にした。

こうした国旗の掲揚の常態化は先占を確定する1つの行為であり、国威を示すという効果は大いにあるが、そのことのみで主権の確立が十分とはいえない。

以上は、拓殖大学海外事情研究所の月刊学術雑誌「海外事情」(2010年5月号)に寄稿した論文「国旗と国家主権」の一部から、煩雑を省くため24個の注を取り除き、加筆したものである。

日本による実効支配が70年近く続いた中で、綿花、サトウキビ、サンゴ、漁業など、それぞれの時代の主産業は変わった。しかし、次第に人口が増え、太平洋戦争時には、7,000の住民を数えるに至った。

戦前は、南極探検の折、白瀬中尉の一行が立寄ったり、北原白秋が保養のため9ヵ月滞在したり、15歳のサトウハチローが父・紅緑の勘気に触れてここに“島流し”にさせられ、初めて詩作に取り組んだり、『李陵』の中島敦がパラオに向かう途中、父島を訪問するということもあった。

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