小笠原・父島の旗立山に「日の丸」 – ペリー寄港で急遽行った危機管理

父島、母島などの小笠原群島は鳥島からさらに南南東方向に500キロほど下る。

今でこそ東京都小笠原村として人口3千弱、観光を中心に活発な村運営が行われているが、江戸時代末期までほとんど手つかずのまま放棄されていた。私はよくぞ、幕末から明治にかけてこの島を日本が確保できたと思うほどであり、国連海洋法で200カイリのETT(排他的経済水域)が認められる時代、この水域があってこそ、日本の領域が世界だい6位と言われる価値ある島々になっている。

日本では小笠原諸島と呼び、1593(天正20)年信濃小笠原家で深志城城主の小笠原貞頼が発見したという説があるが、貞頼という人物は同家の家系図にもなく、今日では、実在自体が否定されている。

他方、江戸時代の初期に松浦党の島谷市左衛門尉が探検したり、1670(寛文10)年2月20日、紀州の蜜柑船(長右衛門ら7人乗り組み)が母島に漂着し、八丈島経由で伊豆下田に生還したため、島の存在が幕府に報告された。これが、日本側による最初の発見報告と考えられており、それ以前にスペイン船が発見した記録もある。1675(延宝3)年、江戸幕府がこの報告を元に富国寿丸を派遣して島々の調査を行い「此島大日本之内也」という碑を設置した。その際、無人島(ぶにんじま)と呼称されたということもあるが、いずれも実効支配が行われていない。

1727(享保12)年、小笠原貞頼の子孫と自称する浪人者・小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出た。しかし、最終的に貞任の訴えは却下され探検の事実はおろか、貞頼の実在も否定された。このため、貞任は8年後、財産没収の上、重追放の処分を下された。

この絵は、母島の沖村で縄遊び(大縄跳び)に興ずる欧米系の女性たちと見物人。後述する水野忠徳の一行に随伴した絵師・宮本元道が『小笠原真景図』として遺したものの1つだ。

こういう世界が、つまり欧米人が外国語で生活する地域が、徳川時代おいて、本土に比較的近いところに存在していたのだ。

徳川時代、日本が小笠原をなんら経営しないでいた間に、小笠原諸島には列強の船が次々にやって来た。

スペイン、オランダ、イギリス、ロシア、アメリカなどである。中でも重要なのは1830年6月のナサニエル・セーボリなど5名の欧米人と、約20名のカナカナ族の人たちがハワイから移住して来たことだ。

これらの人々は農業を営み、寄港する捕鯨船に水や野菜、家畜を売って生計を立てた。

江戸時代末期になって、英、米、露の三国が領土権を主張して、自国の領土であることを宣する表示板を立てたり、地図に記載し、外交官が主張したりということが続いた。1853年には、かのペリー提督も日本来航の前に立ちより、当時盛んだった捕鯨のための薪炭の貯蔵地用として欧米系の住民から50ヘクタールの土地を購入、ナサニエル・セーボリを長官に任命するなどしている。

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