伊藤博文の「日の丸演説」①

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が行われ、日本の国家構造が一気に刷新されました。明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化するとした抜本的行政改革です。そしてこの廃藩置県があったと同じ日、岩倉(1825~83)は外務卿(外務省のトップ)に就任し、さらにその直後、太政大臣のポストが新設されて三条(1837~91)が就任、岩倉がそれまでの三条のポストであった右大臣を兼務することになりました。


岩倉使節団メンバー。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

1871(明治4)年11月12日、横浜港を出発する岩倉使節団。山口蓬春画。

しかし、岩倉外務卿には「条約改正」という難題が迫っていました。幕末に列強と締結した不平等条約を改正するという交渉です。特に、日米修好通商条約は条約改正についての交渉期限が迫っていたのです。そこで、①条約締盟国を歴訪して、「元首に国書を奉呈し、聘問の礼を収めること」、②廃藩置県後の内政整備のため、先進諸国の制度や文物を親しく見聞して、その長所を採り、わが国の近代化に資すること、③翌1872年7月1日が条約の協議改訂期限にあたるので、それまでに日本の希望するところを各国と商議する(予備交渉を行う)というものでした。

これに対してアメリカは日本の法律や諸制度の立ち遅れを指摘し、国際的な活動が必ずしも「万国公法(国際法)」に準拠していないことを挙げ、この条約を継続して維持しようとしておりました。このため日本としては欧米に使節団を送り、その見聞をもとに、文明開化を成し遂げ、その段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことにしたのです。この使節団の派遣は肥前(佐賀)出身の大隈重信が提議したのですが、混乱続く政局の中で大隈は退けられ、また、各国に示す国書の原案では3年としていた延期の期限を、岩倉が無期限と主張したので、結局、期限に触れない内容の文面になりました。

岩倉は自ら使節団にトップの特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允(長州出身)や大蔵卿・大久保利通(薩摩出身)、工部大輔・伊藤博文(長州出身)を副使として伴ったのでした。1年10か月にわたる欧米巡回であり、各国で元首と面会して国書を手渡し、さまざまな体験をし、見聞を広めましたが、結局、条約改正の糸口はつかめないままに帰国するほかありませんでした。

一行は1872年1月15日、最初の寄港地であるサンフランシスコに到着。15発の礼砲で歓迎され、モントゴメリー街にある客室300という広壮なグランド・ホテルに入りました。日々、驚嘆するばかりでしたが、8日目の23日にホテルで開催された歓迎レセプション挨拶の中で、副使・伊藤博文が日本の国旗について説明をしているのです。

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