ロンドン五輪で再び考えた「日の丸」

204の国と地域が参加したロンドン五輪、熱戦17日間で日本は金メダルは7と目標の半分でしたが、銀14、銅17と合計38個、過去最多のメダル数を獲得し、過去最多の「日の丸」が表彰式で翻ったのでした。


英国旗「ユニオン・ジャック」をあしらったステージ上で行われた閉会の式典。

日本選手団は開会式同様、閉会式でも日英両国旗を両手にかざして参加した。

オリンピックはもちろん、「国」の争いではなく、あくまでも個人や団体の競走ですが、自然、日本選手や日本チームを応援すると言うのは自然な発露だと思います。

さまざまなスポーツの発祥の地であり、3回目の開催となったイギリス、全代表団に女性が参加した初の五輪、セバスチャン・コーIOC会長が閉会式で言った「みんなのための、みんなによりオリンピック大会」は、運営上に問題や手違いがあり、課題を残したとはいえ、すばらしいものでした。成熟した五輪の余韻を今も味わっています。

その余韻の中で、私は日本人としてやはり国旗「日の丸」のことをあらためて思い起こさずにはいられませんでした。五輪会場のあちらこちらで見ることのできた「日の丸」、若いサポーターたちが何のわだかまりもないように振りかざし、掲げ、ファイス・ペインティングしているのを、「平和教育」というべきか「自虐史観教育」というべきかを受けて育った老生は少々羨ましく、眺めたのでした。

そして、「戦争をするのも国旗、平和を堪能するのも国旗」という感慨を一層強くしました。

10年余り前の拙著『日の丸を科学する』(自由国民社)の第5章で「日の丸」は「敗戦でも生き残ったが」には、当時、さまざまな読者からご意見をいただきました。私は<侵略の象徴とまで言われた「日の丸」>に気の毒だと言う思いでしたが、戦時中の「日の丸」のことは、さらに研究を進めるべきだと思っています。これからも小欄では繰り返し、この時代の国旗のことには触れていきたいと思います。

というのは、イギリスの「ユニオン・ジャック」、フランスの「三色旗(トリコロール)」、アメリカの「星条旗」はもちろん、スペイン、ポルトガル、オランダ…いずれも世界各地で同じようなことを、あるいはもっと酷いことを昔から長きに亘ってやってきたという歴史的事実があるからです。それが、どうして「日の丸」だけが侵略の象徴と言われるのでしょうか。

残念なことに、「日の丸」は昭和に入ってほどなく暗い歴史を辿りはじめました。

当時の言葉で言えば「支那」、今の新聞では「中国」大陸で始まった事変は、私が生まれた1941(昭和16)年末から、アジア太平洋へと戦線が拡大し、日本では「大東亜戦争」という呼称を正式に決定しました。

「日の丸」は戦地で、そして内地で盛んに用いられました。私が東京オリンピックのための国旗を発注した時、三宅徳男さんという大阪の国際信号旗という「旗屋の旦那」が、ふと涙を浮かべ、「この国旗は全部、平和のため。わしらは若い時分、戦争のための旗ばかり作りよってに」と感慨深げに語っていたのが忘れられません。

マレー、ジャワ、支那、比島(フィリピン)など占領地には早々に「日の丸」が掲げられ、現地の住民は手渡された「日の丸」の小旗を否応なしに振って、「恭順と歓迎」の意を示させられました。

一方、「日の丸行進曲」が歌い奏でられ、梅干1個だけの「日の丸弁当」が登場した内地では、「祝出征」「祈武運長久」などと書かれた「日の丸」をたすき掛けにした出征兵士を、町内総出で見送りました。次第に老人・婦女子ばかりとなる顔見知りの人々の中を、高齢や若年の兵士が馴れぬ手付きの敬礼で、不安を抱きながら家族の前から万歳と「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからは……」の歌に送られて、発って行ったのでした。

「日の丸行進曲」という曲は1936(昭和11)年発表の松坂直美詞、河村光陽曲のものと、38(昭和13)年発表の有本憲次詞、細川武夫曲の2つあります。前者は、

赤は勇気を 正義を示し 白は博愛 平和のしるし

という歌詞で、これでは<時代>の要請にそぐわなかったとみえ、あまり歌われなかったようです。他方、後者の1番と4番の歌詞は、こういうものでした。

母の背中にちいさい手で 振ったあの日の日の丸の 遠いほのかな思い出が
胸に燃え立つ愛国の 血潮のなかにまだ残る

去年の秋よつわものに 召し出されて日の丸を 敵の城頭高々と
一番乗りに打ち立てた 手柄はためく 勝ちいくさ

「敵の城頭高々と」は前年11月13日に中華民国の首都南京を陥落せしめた日本軍をそのまま歌ったものでしょうか。ついで日本軍は38年になって、青島(チンタオ)、威海衛、厦門(アモイ)、徐州、広東、武漢三鎮などを占領し、城頭に次々と「日の丸」を掲げていったのでした。

この年に作られた「皇軍大捷の歌」(福田米三郎詞、堀内敬三曲)は

国を発つ日の万歳に しびれるほどの感激を こめて振ったもこの腕ぞ
今その腕に長城を 越えてはためく日章旗

と、進軍の感激を歌っています。しかし…私たちは今、次の短歌に重い気持ちで接しなくてはならないでしょう。これまでも拙書でたびたび紹介してきましたが、あえてまた著したいと思います。

侵略とは知らず 中国地図上に 日の丸しるせし わが少年期

これは1989(平成元)年12月、「観念的な反戦論しか教えられない若者たちのために、戦争の悲惨さを伝える場として佐賀県吉井町に平和記念館を開いた(『朝日新聞』同年12月9日付)」元中学教師・藤原辰雄氏の歌です。

もっとも、「日の丸」を単純に「侵略の象徴」というのはおかしいではないかという意見もあります。

次に紹介するのは、『朝日新聞』1994年9月1日付の投書欄に載ったもの。案外、前線兵士のホンネだったのかも知れないと私は思います。

昭和20年の8月下旬、私は、今の中国吉林省東部のトーメン(図們)で、ソ連軍により武装解除された。出征の際、勤務先の同僚、友人が寄せ書きして贈ってくれた日の丸も取り上げられた。散乱するおびただしい日の丸を見て、戦友が「ソ連兵は日の丸が憎いのかな」とつぶやいた。

いま、日の丸は戦中、戦後をひきづったまま揺れている。侵略の象徴と見る人もいるが、戦場体験者の私は、必ずしもそうは思わない。あの旗に「大和魂」などという精神的な何かが込められていたかどうか。兵隊の多くが日の丸を大事にしたのは、郷里の人々の寄せ書きににじむ厚意を無にしたくなかったからなのだ。

日の丸に、神がかり的な日本精神や国威発揚といったものを持ち込んだのはだれか。日の丸の赤い色に日本人の赤誠と情熱が宿るなどと、おかしな精神主義をこじつけたのはだれか。オリンピックでの日の丸など、日本選手が試合をしているというシルシであり、標識ではないのか。

古風な戦前の「日の丸観」を、今こそ清算しなければならぬ。日の丸こそニッポンの標識、平和のシンボルとすべきである。

私(1941生まれ)は自分の世代が、「戦争を知らない子どもたち」の一期生であると思っています。ものごころついてからずっと平和で、しかも、右肩上がりの経済でした。資源、とりわけ石油資源をかくも自由に使ってこれたのは、私たちの前でも後の世代でもありません。国家財政さえどんどん後の世代に付けを回して、使用して来たのです。

「日の丸」と五輪旗を見るたびに、私はこの人生の貴重さ、ありがたさを先人に感謝し、後輩たちに詫びるべきだと、考え込んでしまうのです。先輩諸兄姉、ご同輩、こういう考えはいかがなものでしょうか。せめて元気なうち、日本と世界のために何かしませんか?

(詳論の一部は既報した内容です)

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