世界遺産と国旗② – カンボジアのアンコールワット2


カンボジアの国旗

最初にこの場所を訪れた西洋人はポルトガルのアントニオ・ダ・マグダレーナという人で、この遺跡を称賛する報告書も書きました。1586年のことです。もちろん、それ以前にも地元の人たちや近隣諸国の人たちには知られていたと思われます。


アンコールワットの中央祠堂(1866年撮影)

日本人の進出も多く、1632年(寛永9年)には肥前の武士・森本右近太夫一房が父母の菩提後生を祈って仏像4体を献納し、参拝したことが、アンコ-ルワットの中央玄関右奥への墨による書き遺し(墨書)で、明らかでした。アンコールワットを祇園精舎と思い込んでいたようです。アンコール・ワットに残された日本人の墨書は、全部で14 例です。そのうち13例が十字型回廊に見られます。

石澤良昭上智大学学長の論文「1632年にアンコール・ワットを訪れた森本右近太夫一房の消息」(三笠宮殿下米寿記念論集所収、刀水書房、2004年)には、「文章の多くは3~4行の短文であり、長いまとまった文章は、森本右近太夫一房の筆跡のみである。他の多くのものは、“日本”、“堺”、“肥後”などのように、日本人であることを述べ、かつその居住地を明らかにし、墨筆者または同行者の姓名を記している。ただし、これらの事例から判ることは落書きの程度を出ていない」とあります。肥後の木原屋嘉右衛門夫妻、肥前の孫右衛門夫妻などと読めますから、あるいは朱印船に乗り、今でいう「アンコールワット・カンボジア・ツアー」のような形での団体旅行で出かけるいということもあったのかもしれません。

右近太夫について平戸の藩主だった松浦静山の随筆集『』にもある。この随筆集は1821年11月、甲子の夜に筆を起こし、1841年6月に没するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。その正篇巻21の18に次のように記述されています。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登りをも覧てこの伽藍のさまは自ら図記して携還れり。」

石澤教授は「『甲子夜話』にいう森本義太夫の子宇右衛門が、右近太夫一房と同一人である」としています。

肝腎の墨書は次の一文です。拙著『ニッポン国際交流志』(自由国民社)から引用します。

寛永九年正月初而此所来ル生国日本
肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫
一房 御堂ヲ心為千里之海上ヲ渡 一念
之儀念生々世々娑婆寿生之思ヲ清ル者也
為其□仏ヲ四躰立奉者也
摂州北西池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是ヲ書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母者明信大姉為後世ニ是
書物也
寛永九年正月丗日

前段を現代語に訳せば、

寛永九年正月初めてここに来る
生国は日本。肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房
御堂を志し千里の海上を渡り
一念を奉り世々娑婆浮世の思いを清めるために
ここに仏四体を奉るものなり

後段は右近太夫の自己紹介です。(一部は、藤岡通夫・垣成一訓『アンコール・ワット』、宗谷真爾『アンコール史跡考』を参照)

森本右近太夫が無事帰国してから200数十年後の1859年、フランスの探検家アンリ・ムオーがアンコールワットを“再発見”しました。そのくらい長い間、日本は鎖国政策を続けて海外に出かけなくなり、また、この遺跡はジャングルの中に眠り、欧米人を近づけませんでした。

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