日本軍が玉砕した島に立つ国旗 – 北マリアナ諸島のテニアン島

テニアン島というと、私は広島、長崎への原爆投下に向かった米軍爆撃機B29が出立した基地の島ということがまず頭に浮かぶ。核攻撃は無差別爆撃の最たるものであり、広島、長崎への米軍の非道な作戦は決して許されるものではない。


テニアン島での決戦の時、米軍が掲げた48星の「星条旗」。
この国旗を掲げたハゴイ飛行場から出立したB29が、広島と長崎に向かった。

今、テニアン島に掲揚されているアメリカの50星の「星条旗」

テニアン島は日本軍が第一次世界大戦の始まった1914年、それまでドイツ領だったものを軍事占領、1916(大正5)年11月に日本人4人とサイパン島民約20人が移住し、森林の伐採と開墾に従事したのが始まり。また、丸喜商会(後の喜多合名会社)という拓殖会社は近隣の島から移入した椰子の実10万個を買い入れ、椰子の栽培を開始した。

内、6万7、8千個の植え付けに成功したが、1919年初め頃、イセリヤカイガラムシが大発生し、加えて、6月に起こった大旱魃が追い討ちをかけたためにテニアンの農産物は椰子だけでなく島民や移民たちの食糧となるバナナやパンの木に至るまですべて全滅した。

その結果、テニアンの開発を請け負っていた喜多合名会社は破産し、山形など日本から来た移民は十数人を残して、すべて内地やサイパン島に引き揚げた。

その後、1926(大正15)年にテニアンの開発を新たに請け負った南洋興発は沖縄や福島、山形などから移民を集め、椰子に代わって砂糖やコーヒー、綿花の生産を始め、特にサトウキビで大きな成果を上げ、昭和初期にはテニアンの砂糖の生産量は台湾に次いで東洋第2位の生産量となるまでに成長した。また、周辺で鰹漁が盛んとなり、島内には鰹節工場もあった。

1944(昭和19)年6月時点での人口は日本人15,700名(軍人を除く)、朝鮮人2,700名、チャモロ人26名であった。


1944年7月24日に北部のチューロ海岸に上陸する米軍部隊

戦時中は島北部に当時、南洋諸島最大の飛行場といわれたハゴイ飛行場が設置され、テニアンは日本軍の重要な基地となった。

しかし、陸上兵力が少なかったため、満州の遼陽から陸軍第50連隊(連隊長=緒方敬志大佐)を移駐させた。軍人の駐屯は陸海軍合わせて約8,500人に達した。

1944年6月19、20の両日、マリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、それに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。3島での戦闘は、日本の敗戦を決定づけたといわれている。


米軍の攻撃を受ける空母・瑞鶴と駆逐艦2隻

以下、ウィキペディアで「テニアン玉砕戦」といわれた、当時の戦闘状況について見てみたい。

米軍はテニアンの戦略的価値の高さに注目し、1944(昭和19)年7月24日に北部のチューロ海岸から上陸、8月2日に同島を占領した(テニアンの戦い)。1944年7月24日早朝、米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、一斉に重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。

また、日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(en:USS Norman Scott (DD-690))も命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。

7時頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)、LVT(水陸両用装軌車)からなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に上陸した。水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のためほとんど全滅し、米軍は日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊を上陸させた。この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

そして、24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長は戦死し、戦車は4両を残すだけとなった。

日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は、25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3,500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させた。だが、7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領した。

7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近、第三飛行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行うことが困難となった。夜半、緒方連隊長はグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。

翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。

8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。

また角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令大家大佐も戦死した。結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結した。

その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島はグアム島のような火山起源の島ではなく、隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。 

テニアン島での両軍の損害は以下の通り。
日本軍:戦死者 約8,100名、生存者 313名
アメリカ軍:戦死者 389名、戦傷者 1816名。

その後、ハゴイ飛行場は拡張整備され、本格的な日本本土空襲を行う基地となり、原爆攻撃で役割を果たすことになったのは、慙愧にあまりある。

現在のテニアンの人口は一時より減って、3,000人を下回ると見られている。それdめお日本からの観光客などが美しいビーチを求めて来訪し、旧日本軍の通信局が廃墟とはいえ現存したり、日の出神社の大きな鳥居や防空壕、大砲の残骸があるなど、日本統治下や戦争の歴史をところどころに見て周ったりしている。

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