有名な島に立つ国旗 – 北マリアナ諸島のロタ島


現在、ロタ島に翻っているのは「星条旗」。かつては「日の丸」が掲げられていた。

北太平洋というべきか西太平洋というべきか、ミクロネシアの一角・ 北マリアナ諸島に ロタ島がある。他のミクロネシアの島々と同様、マリンスポーツやスキューバ・ダイビングが盛んで、日本人愛好者にはよく知られている。

現在、アメリカの自治領であり、北に101㌔㍍でテニアン島、117㌔㍍でサイパン島、南に76㌔㍍でグアム島(アメリカ準州)に至る。人口は3,000余、面積は85km²。北海道・利尻島の半分より小さい。

今朝(7月16日)の朝日新聞(朝日歌壇)にこんな入選歌が出ていた。

父達がスコップで造ったロタ空港 機を降り立てばゼロ戦のプロペラ

岐阜市 沖山弘次

選者の歌人・永田和宏氏は「慰霊の旅なのだろうか」と書いている。とすれば作者は私と同世代に違いない。

ロタ島は1521年、マゼランの一行に確認され、スペイン領とされた。一帯をマリアナ諸島というのはスペインの女王マリ・アンにちなむもの。米西戦争で敗れたスペインは、1899年、ロタ、テニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツに売り渡した。

しかし、第一次世界大戦でドイツに宣戦した日本はドイツ領南洋諸島全体を占領(1914年)し、北マリアナ諸島をその支配下においた。1920年には国際連盟の委任統治領として、事実上、日本の領土となった。1914年から1945年まで約40年間、「日の丸」が翻っていた島である。

1935年になってようやく製糖工場が完成したが、生産効率がままならず、工場は三年余りで操業停止に立ち至った。

太平洋戦争中はテニアン、サイパン、グアムは日米両軍の激戦の地となったが、米軍はロタ島には上陸せず、ロタ島は周辺から孤立した状態に置かれた。終戦の前年、1944年になると守備隊が増強され、陸海軍総指揮官・今川茂男陸軍歩兵少佐以下、海軍2,000名(第56警備派遣隊、設営隊、航空隊基地要員)、陸軍950名となった。

同年、6月19日、マリアナ沖海戦に参加して米軍のF6F戦闘機に追跡された艦上爆撃機彗星(阿部善朗大尉ほか1名搭乗)が不時着して、このあと、阿部大尉が海軍部隊の指揮官となった。

ロタ島は日本本土空襲に向かうB-29爆撃機の機数・方位を無線で警告する役目を担った。連日のように空襲を受けながらも、米軍の上陸はなく終戦の日を迎えた。

45年9月2日、米軍の駆逐艦が投錨、午前11時、ロタ島で現地部隊の降伏調印式と武装解除が行われた。翌々日の4日、海軍将兵1,853名、陸軍将兵947名が武装解除の上、ロタ島を離れた。戦没者は海軍152名、陸軍84名と記録されている。

戦後はアメリカの信託統治領を経、78年以降はアメリカの自治領となる。ロタ島には日本統治時代を思わせる赤煉瓦造りの製糖工場跡や太平洋戦争時の旧日本軍砲台跡などが今ものこっている。

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