「星条旗」物語② – 硫黄島の「星条旗」

2005年6月、米軍の招待で”小泉チルドレン”9人とともに硫黄島(東京都小笠原村)に行きました。よく晴れわたった日で、大島をはじめ伊豆七島が眼下に手が届くように見えました。


この時の48星条旗
1912~60年

厚木の飛行場から1,200キロ、米軍の輸送機(双発プロペラ機)で二時間近くかかりました。

この厚木飛行場こそ、かつて日本海軍の航空基地として首都防衛に当たったところであり、終戦直後の45年8月29日、マッカーサーがコーンパイプを加えながら、勝利者として初めて降り立ったところです。日本側では海軍の精鋭たちがこの搭乗機の着陸を阻止しようと、滑走路にバリケードを築くなどして妨害行為を行ったのです。

しかし、安藤明を首領とする運送会社安藤組の働きかけと協力で、着陸直前になって、滑走路を片付け、小さな星条旗をつけた小型機を迎えることが出来ました。『安藤明―昭和の快男児 日本を救った男』に詳しく出ています。

私は長女の亜紀子さんとは高校時代から赤十字のボランティア活動を通じての知り合いで、作家でユースホステル運動の創始者である中山正男がこの秘史を週刊文春に連載したとき、日米間の想定外の危機を救った安藤という人物に、すっかりほれ込んだものでした。

それはそうと、硫黄島は日本語では「いおうとう」といいますが、英語では「Iwojima」。富士山を「ふじさん」と「Fujiyama」というようなものでしょうか。もっとも幕末のころ、幕府は「丸」という当時としては最新鋭の軍艦を持っていましたから、案外、こちらはそういう名前から来たのかも知れません。

1945年2月16日、栗林忠道中将麾下2万2千人の将兵が守るこの島に、米軍が艦砲射撃と空爆による激しい攻撃を仕掛け、3日後、擂鉢山(169m)の麓の浜辺に敵前上陸を敢行しました。日本軍の激しい抵抗に遭い、すぐそばの擂鉢山を征服するのに6日間もかかりました。山頂に「星条旗」を掲げる有名な写真は、「ライフ」の誌面を飾り、その大きな像がワシントン郊外のアーリントン墓地にあります。

実際に掲げられた「星条旗」の星の数はもちろん、当時のアメリカの州の数48個です。「星条旗」を立てる有名なシーンは撮影の都合で2回、行われたのでした。米側にしてみれば、これで、3月10日の日本の陸軍記念日に東京を爆撃するという計画がかろうじて間に合いました。

日本軍で生き残ったのはわずか1,000人程度、米軍は6,821人が亡くなり、約2万人が負傷しました。擂鉢山に旗を掲げたメンバーでも、マイク・スクランク軍曹、そしてハーロン・ブロック、そしてフランクリン・スースリーの二人の兵も戦死しました。硫黄島は太平洋戦争で唯一、米軍側の死傷者が日本側を上回ったところです。

硫黄島はサイパンと東京の中間にあり、この島を押さえないとサイパンから日本本土に向う爆撃機の往復が危険なのです。米軍としては島に数本あった滑走路をどうしても確保しておきたかったのですが、3月10日にはいずれも穴ぼこだらけで使えませんでした。

戦死した中には西竹一第26戦車連隊長(1902~45.3.22)がいます。1932年のロサンゼルス五輪馬術競技、障害馬術の金メダリストです。愛馬ウラヌスを御し「I(私)」ではなく「We won」と人馬一体になっての勝利を感想で延べたことでも知られています。


ロス五輪当時の西竹一選手

戦車26連隊長・西竹一陸軍大佐とウラヌス

先年、クリント・イーストウッド監督の2部作、すなわち、アメリカ側の視点からの「父親たちの星条旗 Flags of Our Fathers」と「硫黄島からの手紙 Letters from Iwo Jima」が大いに注目されました。また、作家・城山三郎『硫黄島に死す』を書き、ノンフィクション作家久美子は『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。いずれも名作といえましょう。

アメリカ側では従軍記者のロバート・シャーロットがいち早く『硫黄島』を描いて激戦の様子を報告しています。学徒出陣でこの戦闘に参加直前に、たまたま本土に戻った人に多田實さんがいます。1944(昭和19)年の夏に爆撃で重傷を負い、内地送還となったことが運命を分けました。後に読売新聞で活躍された方で、『海軍学徒兵硫黄島に死す』と『何も語らなかった青春』を遺しています。私は学生時代にこの人に文章の書き方を教わりました。

「硫黄島の星条旗」に米国側にも特段の思い入れがあるためか、1968年に返還された小笠原諸島の返還交渉にあっては、「返還後も摺鉢山の山頂には星条旗を掲げさせて欲しい」との要求も出されましたが、日本側が拒否した、という話が伝わっています。日本人としての矜持の問題です。当然でしょう。

硫黄島には今なお、推定6000体以上の遺骨が洞窟などに残されたままといわれています。私もいくつかの洞窟に少し入ってみましたが、熱気と湿気、そして何よりも毒を含む成分のガスがあって、容易には近づけませんでした。

今の硫黄島では米軍が滑走路を空母に見立て、戦闘機の「タッチ & ゴー」訓練をしているほか、海上自衛隊も駐屯しています。ですから、今ではふだんは「日の丸」のみ、米軍の演習がある場合には「星条旗」も併揚されています。

未だ取り残されたままの日米両軍将兵のご遺体に合掌して空路、島を後にしました。


49星条旗
1959~60年

50星条旗
1960年~現在

ペリーが来日したのは1853年、カリフォルニアとアリゾナが州に昇格した直後で、「星条旗」は32星でした。

1909年4月6日、米国の探検家ロバート・ピーリーが北極点に初めて到達して立てたのは、妻の手製による46星の星条旗。そして、孤島・硫黄島を護る栗林忠道中将麾下の日本軍を超える死傷者を出した米軍が、擂鉢山に立てたのが、48星の「星条旗」。今その巨大なモニュメントがワシントンDC郊外のアーリントンに建っていますが、その彫像が掲げているのは、現在の50星の「星条旗」です。1960年初夏、安保改定反対のデモが連日のように国会を取り巻くさなか、アイゼンハワー米大統領来日は中止されました。もし、同大統領が訪日していたらその時は49星の「星条旗」で歓迎する人と、その旗に火をつけて反米の意思を表わす人がいたことでしょう。49星は7×7個ですが、星の配置は微妙にずれています。

アメリカは、その後、ベトナム戦争に敗れ、イラク戦争では停戦後の死者が戦時中よりも多いという苦戦を強いられてようやく撤退、アフガニスタンでのタリバーンとの戦いでも苦戦を強いられていますが、これらの戦争ではすべて、50星の「星条旗」の下で遂行されているのです。50星の時代はまもなく半世紀、星条旗でも一番長くなりました。

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