「星条旗」物語① – 「9.11」と「星条旗」の洪水

返すがえすも残念なことですが、21世紀は憎しみから始まってしまいました。

2001年9月11日夜、帰宅してテレビのスイッチを入れると、ちょうど最初の自爆機が世界貿易センタービルに突入するところでした。それが同時中継されている現実の映像であることに、打ちのめされました。「9.11事件」では3000名を超える「普通の人」(民間人、市民、非戦闘員)が殺害され、世界を震撼させたのでした。

当時、80カ国以上を訪問していながら私はそれまで、南米に行く途中、マイアミに一晩とか、何度かアンカレッジ空港に立ち寄ったことはあっても、ハワイを含め、アメリカを訪問したことがほとんどありませんでした。

理由は幼児体験です。終戦の前日、1945(昭和20)年8月14日の深夜11時からわが故郷・秋田市の外港にあたり、母の出身地である土崎港町が空襲され、老幼女など72人が死亡したということにこだわってきたからです。

翌々日、父は疎開先から私とすぐ上の兄・忠晴を呼び戻し、自転車に乗せて、筵をかけられただけの死体を見させました。その時の父の剣幕を今でも覚えています。「アメリカは許せん」。父はその後、毎年のようにその場所に私たちを連れて行き、「忘れるな」と教え込んだのです。

思えば、松岡洋介が日独伊三国同盟締結のため秋田県船川港(男鹿半島)から出発するに際し、父は秋田市議会議員として見送りに行き、万歳三唱の時に「バンザーイ!」ではなく「バカヤロー…」と小声で叫んだという、“異端者”でした。

自分が、長い間、郷里・秋田の空襲にこだわり続けるあまり、それまで、国際社会におけるアメリカの圧倒的な重要性について頭の中の理屈としては解っていても、アメリカに距離をおき、しばしば不当に軽視したり、敬遠してきた愚かさに気付いたからなのです。日米同盟が日本の基盤であり、憎しみからは建設的なものは何にも生まれない、というのに。

私は、「9.11事件」から1週間余経った復活第1便で、止むに止まれずワシントンに飛んでいました。「秋田の空襲なんてもんじゃない。あれから60年近くも経って人類の進歩って何なんだ」と思いながらです。ジャンボ機には19人しか乗っていませんでした。

私が受験のために上京してきた1960年から2010年はちょうど50年、当時は日米安保条約の改定が最大の政治課題でした。国論が二分し、学業どころではない対立があちらこちらで見られました。

秋、日比谷公会堂での「三党首演説会」に早々に出かけました。最前列で、浅沼稲次郎日本社会党委員長が刺殺される様子をつぶさに見たのです。私は当時から周辺の同じ世代ではごく少ない日米安保条約改定賛成派でしが、日本外交が戦後一貫して日米同盟(日米安保条約)を基礎としてきたことに間違いはなかったと今でも思います。

但し、私は父からの刷り込みもありましたが、物心がついたころから、アメリカが嫌いでした。それは第2次世界大戦において、日本に対し原爆投下を含む無差別爆撃を繰り返し行い、多くの非戦闘員を殺害し、戦後も公式な反省も謝罪もしていないことを許せないからです。

新潟県長岡市では8月1日から2日にかけての大空襲で1470人もの人が亡くなりました。今でも毎年8月2日に「長岡の花火」大会が行われるのはその追悼のためです。長岡が空襲されたのは山本五十六元帥の生まれた町だからなのでしょうか。北海道では札幌が空襲に遭わなかったのに、道東の根室町(当時)が、7月14日に大空襲に遭い、町の3分の1が焼失し、多くの死者を出しました。富山県高岡の部隊に配属された三兄・忠(学徒兵のポツダム少尉)は富山空襲の悲劇を何度も語ってくれます。いずれも戦時国際法に違反する重大な戦争犯罪です。

初めてのアメリカ訪問で見たのは、あらゆる建造物や乗り物に「星条旗」が翻っている様子でした。テロを憎むアメリカン・ナショナリズムが燃え盛っていました。

それ以前の話、1971年12月、私は国際赤十字の駐在代表として、第3次印パ戦争の只中にいました。この戦争で、それまで東パキスタンと呼ばれていた今のバングラデシュが独立を達成しました。この時も国旗の“洪水”でした。各家屋はもとより塀や犬小屋の上まで国旗でした。パキスタンの弾圧下にあったとき、いったいどこにこの旗を隠し持っていたのかというくらい、各家庭が秘かにしまって、持っていたのです。それだけ桎梏を逃れようという、究極のベンガル・ナショナリズムが渦巻いていたということです。

地元紙は、Bangkadesh comes into being!(バングラデシュ建国成る!)という特大の見出しを掲げていました。

ちょうど30年を経、後発開発途上国であるバングラデシュのことを思い出しながら、最先進国であるアメリカの首都ワシントンDCに初めて立ち、ナショナリズムにしかない、怖いほどの団結力とパワーをひしひしと感じさせられたのでした。

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