ドイツ国旗物語

国旗が変わるのは何もこれまでに述べてきたような発展途上ないしは政情不安の国ばかりではありません。
大国の国旗変更の例として、ドイツ、アメリカの例を挙げてみましょう。
ドイツの国旗は近代の列強として叙せられた国としては、例外的によく変わりました。

「日の丸」が明治維新でも、第2次世界大戦での敗戦でも変らなかったのとは好対照です。
その話をするためには、まずは、「おいしいい話?」にお付き合いください。

洋菓子がいささか苦手の私でも食べるのがバウムクーヘン、これが広島県似島の捕虜収容所から始まったことは思いのほか知られていないようです。
捕虜が文明の移動をもたらしたのはサラセン帝国に紙を教えた蔡倫から、足袋屋の日本ゴムにタイヤの製造を教えて、今日「世界の道を知っている」ブリヂストンタイヤのもとをつくったマックス・フィッシャー、そして今はPASCOの名前で通っている敷島パンもドイツ人捕虜の指導のおかげです。
が、そうした例は拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)で詳述したので本論に戻ります。

ドイツ菓子舗ユーハイムの創業者カール・ユーハイム(1886~1945)の話です。
今からおよそ140年前、1871年1月、ドイツはプロイセンを中心に再統一、ドイツ第2帝国が誕生した。
このときの国旗は黒白赤の横三色旗。
第一次世界大戦で日本と戦った青島のドイツ軍はこの旗を掲げていたのです。
多勢に無勢、敗れて日本各地で収容された約4千の捕虜の中にカール・ユーハイムがいました。
一介のオーナー菓子職人だったのですが、日本軍がいささか苦戦したこともあって、捕虜の数を増やそうとしたのです。
カールはそれに「つき合わされて」日本で4年もの収容所暮らしをさせられました。
戦後は、神戸で「ユーハイム」を開店、ロゴとして帝政ドイツの黒白赤の横三色旗を用い、中央にJuheimと書いたものにしたのです。
未曾有の戦さに破れた遠い祖国を思う強い気持ちがこめられていたのではないかと思います。

捕虜収容所を出たカールのバウムクーヘンは1919年、今の原爆記念館(当時の広島物産館)での展示即売会にも出されました。
その後、日本中に普及し、あなたの口にもきっと入ったことがあるでしょう。
なんとも残念なことに、そのロゴが2009年の9月に変更になり、半年後には帝政ドイツ国旗のロゴのついた在庫品も消えてしまったそうです。

それはさておき、第一次世界大戦に敗れたドイツは1919年に共和制の国家に変り、国旗は現在と同じ黒赤金(黄)の横三色旗となりました。
その後のナチス時代の1933年に、かの「鉤十字旗」が国旗になったのはご存知の通りです。

第2次大戦に敗れたドイツは、東西に分かれましたが、西ドイツは再びワイマール共和国時代(1919~33)の黒赤金の旗に戻し、東ドイツはそれにハンマーと分度器を麦の穂で囲んだ紋章を付けたものとしました。

1989年に再統一した現在のドイツ国旗は、1813年、ナポレオンと戦ったプロイセン軍に参加した大学生を含む義勇兵の“黒い軍服、赤い襟、金ボタン”に由来しています。
19世紀までのドイツは長らく多数の小邦に分かれていましたが、ナポレオン戦争の後、急速に統一運動が起こり、その中心はイエナ大学をはじめとする学生たちでした。
1832年5月27日、ババリア憲法発布記念日を祝して、学生を含む3万の群衆が、この旗を掲げて「ドイツ統一」を叫び、同領プフあるハンバッハの古城で「祭りの祝宴」を開いたのです。
これは、きわめて早い時期のこの旗の使用と思われます。

しかし、そこまでは解っていたのですが、ドイツ史とそれぞれの時代の旗との関係がよくわからず、私はいささか混乱していました。
そこでドイツに詳しい畏友・大貫康雄NHK元欧州総局長(ユーラシア21研究所理事)に失礼ながら、メールで御教示をお願いしました。
するとたちどころに、詳しく教えていただきました。以下は、ほとんどそのメールのやりとりを転載したものです。

●大貫康雄氏(NHK前欧州総局長)から教わったこと

☞ハンバッハの古城で「祭りの祝宴」とはどういうものだったのでしょう?

ハンバッハ城はドイツ南西部ラインラント=プファルツ州の南部、フランスのアルザス県とロレーヌ県に近いところにあります。
最寄りの町はワイン街道の町で知られるノイシュタットの中心部に4キロほどです。
プファルツ地方はウィーン会議などを経て1816年以来、バイエルン王国の領土となり、表向きにはこのバイエルン王国の祝賀行事としての祭りにも参加していたことでしょう。

それ以前はフランス革命軍が占領し、フランスと同じく地元の人たちに様々な権利が与えられていました。
しかし、バイエルン王国は市民に重税を、特産品のワインやたばこの輸出に重い関税を課したり、信仰の自由を制限して検閲を強化するなど抑圧的な政治を行っていました。
ハンバッハ城は、地元の人たちがバイエルン王国の圧政に抗議して立ち上がって「ハンバッハ祭」を行い、ドイツ統一と民主主義を求める運動が始まった所として記憶されているのです。

「ハンバッハ祭」は1832年5月27日から30日にかけて行われ、男女、階級を超えて農民、ワイン業者、労働者から貴族、富裕な商人、有力者まで約3万人もが当時は廃墟になっていたハンバッハの城まで4キロの山道を登って集まりました。

これには1830年フランス7月革命の影響もあったと言われます。
また、この7月革命で追われたフランス人や30年11月からの反ロシア蜂起に参加して追われた亡命ポーランド人も参加しています。
抗議集会を「祭」というのはバイエルン王国が政治集会を禁止していたため、地元の人たちの祭だと偽ったためだ、とのことです。
この時、金、赤、黒の3色旗を掲げてハンバッハ城に上って行く様子を描いた絵が残っており、ハンバッハ祭150周年の1982年西ドイツ政府発行の切手に使われているのです。

ただ色の配置が現在のドイツ国旗と上下反対になっています。
ドイツと金(黄色)、赤、黒の3色の関係は古くはドイツ騎士団が用いた色だとか、1813年、ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・リュッツォウが対ナポレオン戦争に義勇軍を率いた時に黒い軍服、赤い襟、金のボタンとして用いたとか諸説あります。

この時以来支配階級を含めたドイツ諸国民の間に黒(隷属状態)から赤(決死の抵抗闘争)を通して黄金(自由と解放の勝利)を得る目標を掲げこの3色が使われるようになったのです。
また、学生や商工業者、市民階級にとっては対ナポレオン戦争は単なるフランスからの解放だけでなく生活を抑圧していた旧支配階級からの解放も意味し、小さな封建領邦を解体して窮屈な環境からドイツ全土をより自由で民主的にしていこう、という意味でもこの3つの色が使われるようになったのです。

ハンバッハ祭はこの政治思想の発露であった点で今日評価されているのでしょう。

今はハンバッハ城での「祭」での3色旗が自由と民主化、統一の象徴とされています。

☞ハンバッハ城での祭り以前には、黒、赤、黄の3色はシンボリックに用いられてはいないのですか?

黒、赤、黄の3色は国章などに神聖ローマ帝国(916年、オットー1世の戴冠)の初期から使われており、これに由来すると見る学者もおります。

神聖ローマ帝国は実質的には固定した都がなく、皇帝選挙権を持つ領主や大司教たちが選んだ皇帝が君臨する緩やかな連合国家であったと見た方が良いのですが、それでも15世紀ころまでは「黄金地に、嘴と脚と爪が赤の黒い鷲」が神聖ローマ帝国の紋章となっています。
15世紀以降は、黒い鷲が「双頭の鷲」になっています。
また、神聖ローマ帝国の国章には「黄色地に黒い鷲」が使われていました。それより古く800年に(不意打ちのように教皇によって行われた)カール大帝(シャルル・マーニュ)の戴冠式の模様を描いたデューラーの絵には、「黄色の地に嘴、舌、脚と爪が赤い、右を向いた黒い鷲」が見られます。

神聖ローマ帝国にしても黒い鷲が使われていますが、初代皇帝であるオットー1世(在位962年~973年の肖像画に黒が意識して使われている気配はありません。
また、1200年から1350年にかけての旗は赤地に白十字でした。
プロイセン王国とハンザ同盟都市以外のドイツ各地ではこの黒、赤、黄色の3色が一般的に使われるようになっていた印象を受けます。
1848~49年の3月革命の際に掲げられた旗も、同じ年にフランクフルトのパウルス教会で行われた国民議会で使われたのも、この3色旗です。

二百もの小国が乱立し、個人の自由を制限し抑圧的だったドイツ「諸国民」の統一と民主革命を目指す者によって用いられてきて、1919年ワイマール共和国時代に正式にドイツの色とされました。

☞黒は「鉄血宰相」ビスマルクを連想させたり、いかにもドイツのいろという感じですが、ドイツ連邦を構成する州の旗との関係はどうでしょうか? 調べてみると、現在の16州の旗を見ても黒を使っていない州は9つあります。
ちなみに、左はフランクフルト(アンマイン)のあるヘッセンの州旗。モナコ、インドネシアの両国旗と同じです。

ザクセンは、上が白、下が緑の横2色旗、チューリンゲンは、上が白、下が赤の横2色旗、北端のシュレスヴィヒ・ホルシュタインは、青、白、赤の横3色旗、人口最大州のノルトライン・ヴェストファーレンは緑、白、赤の横3色旗、バイエルンは、白と薄青が斜めに交差しているカーレースのチェッカーのような旗、都市州のハンブルクは、薄い赤地に3つの塔を持つ白い門が描かれています。
同じ都市州のブレーメンは、赤白赤白赤白赤白の横縞に左脇に白赤白赤白赤白赤の縦縞があります。
メクレンブルク・フォアポンメルンは、青、白、細い黄色そして白、赤の順に配色、首都ベルリンは赤と白に熊です。
ですから、主要な州の旗と国旗の色ともあまり関係はなさそうです。

☞では、第二帝政時代にどうして黒、白、赤の横三色旗になったのでしょう?

プロイセン王国の旗は 黒と白が上下に配置された黒白2色旗です。
オーストリア帝国とドイツでの覇権争いをしていたプロイセンは普墺(プロイセン・オーストリア)戦争で勝利した後、1867年にハンブルク、リューベック、ブレーメンなどのハンザ同盟自由都市を引き入れて北ドイツ連邦を結成す。
この時、ハンザ同盟都市の旗(白と赤が上下に配置された2色旗)をプロイセン王国の旗と組み合わせたものです。

ビスマルクは無駄な争いはせず、その前にハンザ同盟都市などと北ドイツ関税同盟を結んで域内の通商貿易を活発にしており、ハンザ同盟都市を重視していたことが旗からも判ります。
この北ドイツ連邦 を主体とした連合軍がフランスを破って(オーストリアを排除したプロイセン主体の)小ドイツ主義による統一ドイツ国家が成立しました(バイエルン王国もザクセン王国も加盟)。

従って黒白赤の北ドイツ連邦の旗が、そのまま第二ドイツ帝国の旗になったものと思います。

☞ドイツとフランスの国旗を並べてみると、その背景にある言語、文化、歴史、政治的…相違に思いが及び、私はやはり古い人間なのかなあ、とてもEUの両巨頭とは思えなくなることが、正直言って、時々、あります。

冬が長く暗い夏はとてつもない明るい、抜けるような青空と冬のような灰色の冷たい空気が突然襲う変転極まりないドイツの風土に赤と黄色は暖かさ、明るさと元気を人々に与えます。
また黄色(黄金)と黒の組み合わせは補色関係というか良く合い、目立ちます。

黒と黄の組み合わせは日本でも良く使われます。不思議なことにベルギーで同じ配色の国旗ですがしっくりいかない場合が多いなと感じたりす。
私の偏見、身勝手な感覚かもしれません。
青、白、赤のフランスの三色旗を見ると、青と白ではドイツ人の気質に照らして少し弱すぎて合わないのかななどとこれも独断と偏見です。
但し、独断と偏見がなくては、進歩も多様性も生まれないと思っています。
ワイマール共和国時代にはこの<黒、赤、黄色の3色旗>が 正式に国旗とされる一方、第二帝政の<黒、白、赤の3色旗>は 国防軍旗として使われているのです。
3色旗の色の意味についても諸説あります。

私が大学時代にドイツ人教師から教わったのは黒は、鉄の意志、弛まぬ努力赤は、燃えたぎる情熱黄色(黄金)は、繁栄する国家を意味するということでした。
黒を勤勉、赤を情熱、黄色(黄金)を栄誉、名誉と解釈する学者もいます。

一方、カラーセラピストの石井満弓さんは「あくまでも、私の個人的な解釈ですが」と前置きして、「黒は、意識レベルの高さ、他との差別化、特別であるという意識、赤は、エネルギーだけではなく温かい心であったり、情熱、リーダーシップ、金(山吹色)はサクセス、もしくは、権力、知識の応用、独立心、知性。全体に内に秘めたプライドの高さを感じさせる色使いです」と解釈しておられます。これまた説得力がありますね。

ところで、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国旗はこの旗の中央に労働者の象徴としてのハンマー、知識人を表すコンパス、そして両者を麦の穂で囲む紋章をつけたものでした。

大使館などでは、ドイツの三色旗がEUの青地に黄色い星の旗と並んでいます。
それを見ると、近代ドイツの歴史と、新しい統合したヨーロッパの牽引車のような国としてのドイツ、ヨーロッパの新しい「時代」を2つ旗の併用に感じるのは私一人でしょうか。

NHK総合テレビ「その時、歴史は動いた」は英国旗を逆さまに揚げて松平定知キャスターがお詫びしたこともありますが、ほかにも国旗のミスがありました。

1875年に岩倉訪欧団がベルリンを訪れる番組の中で、なんとブランデンブルク門の上に、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国旗がはためいているです。
どうしてNHKはこういう時に、きちんと確認しないのでしょうか。
そういえば以前、人気の連続テレビ小説のタイトル画面に、帝政ドイツ時代なのに今のドイツ国旗を半年間、出しっぱなしということもありました。途中で注意したのですが、「もう変えられませんので」。

左から、帝政ドイツ(1871~1918年)、ワイマール共和国(1919~35年)、ナチスによる第3帝国時代(1935年~45)、ドイツ連邦(西ドイツ時代~現在)の国旗、1945~49年の占領時代に連合国が決めたドイツ商船旗(国際信号旗の「C」旗に由来、Cは”capitulation”(降伏)を意味する。
1956〜91年の東ドイツ国旗、1960年のローマ、64年の東京両五輪で掲げられた統一ドイツ五輪チームの旗、現在のドイツ政府旗(大使館や政府庁舎などで掲揚)。)

東ドイツの国旗を誤用する2年前、私は、英国旗が逆さまに掲揚されている同じ番組について、事前に相談を受けました。
私がダメだとお伝えしたにかかわらずそのまま放映したのでその無神経さを咎めざるをえませんでした。
他からもクレームがあったのでしょう。
松平キャスターが2週間後に番組の中でお詫びしました。
日本経済新聞がこのことは取り上げて報道しました。
人間ですから間違いは侵します。
しかし、そのことに謙虚でありたいものです。

繰り返しますが、国旗は諸外国では変わることがあるのです。

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