宗教に悩まされ続けてきた赤十字のマーク③ – 日本も最初は赤十字ではなかった


西南戦争時の「博愛社」による救護活動。
日本赤十字社熊本県支部のHPから

佐野常民

大給恒

三条実美

非キリスト教国、非イスラム教国であるわが日本では1887年の西南戦争の際、佐野常民(1823~1902、後に伯爵、枢密顧問官)、大給 恒(ゆずる、後に子爵、賞勲局長 1839~1910)らの提議を、有栖川宮(明治天皇の弟宮)が裁可して赤十字と同じような組織がうな組織が出来たのですが、その時は、三条実美(さねとみ、1837~91)の「耶蘇は嫌いじゃ」のひと言で、赤十字とはながず博愛社に、またその標章は十字ではなく、「日の丸」の下に赤で一(横に長い赤い線)を入れたものとしたのでした。

詳しくは、拙著『赤十字とアンリ・デュナン』(中公新書)をご参照ください。

ところが、西南戦争が終わると、博愛社はあまりやる資金も能力も組織もなかったのです。当時の新聞でも、活動は沈滞のきわみ、せいぜい、年末に困窮者に多少の品を配ってるのみと揶揄されているほどです。

そこで、橋本左内の弟である橋本綱常をヨーロッパに派遣して、赤十字とはどんな組織で、どんな活動をしているかを調査させたのです。その結果、「ジュネーブ条約(1864)なるものがあって、それに加入しなくては赤十字社に入れない」ことが判明し、「ではそのジュネーブ条約にも加入しようではないか」と、さらに人を派遣してジュネーブやパリにあたらせたのでした。

明治10年代の末のことでした。「文化の違うところで赤十字の活動などできるのか」と、ジュネーブのICRC(赤十字国際委員会)では、まともに応対してもらえなかった節もあります。散々努力を重ねた結果、日本は1877(明治20)年に、この条約に加盟することが出来たのでした。

いかんせん、当時日本が加盟していた多国間条約というのは、万国郵便条約、メートル法条約程度しかなく、国際社会の基準とも言うべきこのジュネーブ条約に加盟できたということは、実に画期的なことでした。

かくして、「博愛社」は「日本赤十字社」となり、晴れて「赤十字のマーク」の使用も認められたのでした。時代は変わり、欧化主義華やかな、鹿鳴館時代であったればこそ、「耶蘇のしるし」は、きわめて新鮮に日本社会で受け入れられました。

2011年11月現在、国際赤十字を構成する186ヵ国中33か国が赤新月を、イスラエルのみが赤水晶(Red Crystal)を標章としています。

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