レバノン杉の栄光と衰退、そして復活の物語② – 安田喜憲教授らの20年


レバノンの国旗

憲法で規定されたレバノンの国旗について、何よりも大事なのは、国旗の中央に描かれている「レバノン杉」の過去と現在を理解することでしょう。以下は、安田先生の『森と文明の物語 ― 環境考古学は語る』(ちくま新書)「第1章 香わしき森の悲劇」からの抜粋です。写真は安田先生編『Forest and Civilisations』(Luster Press, Roli Books,2001)

森林破壊の王ギルガメシュ

レバノンスギ(Cedrus Livani)はスギという名前がついているが、スギの仲間ではない。

マツの仲間の針葉樹である。レバノンやトルコの地中海沿岸の山地に主として分布する。

現在では、海抜1000メートル以上の乾燥した、表層土壌の発育の悪い岩礫地にわずかに生息するにすぎない。ツガと同じように、枝が横に張るため雪害に弱い。雪の重みに耐えかねて、枝が折れやすい。胸高直径70センチメートルぐらいの大きさになるまではまっすぐに生長し、樹高は30メートル以上に達する。材質はたいへん硬く、かつ腐りにくい。このため、船材やマストには最適だった。

さらに特筆すべきは、この木が放つ香りだった。香柏と呼ばれるくらいにすばらしい香りを放つレバノンスギは、古代の神殿の内装材として、これにまさるものはなかった。古代の人々は香わしい聖なる香りに包まれて、神殿の巫女から神託を受けたのである。

旧約聖書によれば、ソロモン(Solomon)王は、ティルスの王ヒラムに小麦やオリーブを与えるかわりに、レバノンスギを手に入れたのであった。ソロモン王はレバノンスギの伐り出しに、1ヵ月交替で1万人を送った。このレバノンスギで、彼は主のために宮を作った。宮の内側の壁から床、そして天井にいたるまで、香柏の板で貼りめぐらしたと旧約聖書はのべている。また、ソロモン王は自分の家を建てたが、その家はすべてレバノンスギでできており、森の家と呼ばれた。

レバノンスギにとって悲劇だったのは、まず生育する山地が古代文明が栄えたところであったことであり、おまけにもともと森の少ない地方に取り囲まれていたことである。このため文明の発展にともなう木材の必要性と人間の飽くなき欲望の渦にさらされたレバノンスギは、徹底的に破壊され、その美しい自然の姿は消失させられてしまうのである。

この香わしきレバノンスギの悲劇の物語を、まずお話しすることにしよう。


フンババの故郷ヤディ(Jadji)のレバノン杉(安田先生撮影)

森の神フンババの殺害

レバノンスギが人類史に登場するのは5000年前のことである。メソポタミア地方で書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ Gilgamesh』にレバノンスギは登場する。それはウルクの王ギルガメシュが、レバノンスギの森を征服する物語だった。


ルーブル美術館にあるギルガメシュ王。
アッシリア(現イラク)のショルサバード(Cholsavad)宮殿の彫刻。(安田先生撮影)

「人間は今まで、長い間、実に長い間、自然の奴隷であった。この自然の奴隷の状態から人間を解放しなければならない」(梅原猛『ギルガメシュ』新潮社 1988年)。

こういって、ギルガメシュ王はエンキムドゥとともに、フンババという森の神を退治に出かける。これが『ギルガメシュ』の物語のひとつの山場である。このフンババ退治こそが、人間が森を破壊し征服した、最初の記念すべき出来事であった。

シュメールの神エンルリに命じられた半身半獣の森の神フンババ(Humbaba)は、梢をそびえさせるレバノンスギの森を、数千年のあいだ守ってきた。人間どもの欲望の渦によって、神々しい森が汚染され、破壊されることを防いできたのである。

だがある日、強力な青銅の手斧を持ったウルクの王ギルガメシュがやってきた。ギルガメシュ王はレバノンスギの森のあまりの美しさに一瞬われを忘れ、立ちつくす。

しかし「この森を破壊し、ウルクの町を立派にすることが人間の幸福につながるのだ」。気をとりなおしたギルガメシュ王は、神々の宿る聖なるレバノンスギを伐りはじめたのである。

怒り狂ったフンババは、嵐のような唸り声をあげて、口から炎を吐きながらギルガメシュに襲いかかった。しかし、ギルガメシュとエンキムドゥは強敵だった。フンババはとうとうその頭を切られ、殺されてしまった。

このようにして、森の神フンババは青銅の文明を手にしたギルガメシュ王に敗れたのである。フンババ退治は、人類が森林破壊の文明への道を選択した、人類史における重要な分岐点であったといえよう。

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