日本の敗戦は韓国の光復の日 – 8月15日の今のソウル

岩波書店の広報誌「図書」2012年6月号を見ていたところ、<私の「解放」の日>と題する金 時鐘氏の興味深い一文が出ていました。韓国の国旗は「太極旗(テグキ)」。その旗に関わる部分だけをご紹介しましょう。

この時期の旗のデザインは基本的にはいまと同じですが、巴の形や卦の配置などかなり混在していたようです。その変遷を韓国・忠清道天安市に1987年に開館した韓国独立記念館の正面玄関に展示しています。このことについては別の機会にお伝えします。


現在の韓国旗

なお、天安は1919年の「3.1万歳事件」で反日運動の先頭に立った女学生・柳寛順(ユ・クァンスン)生誕の地であり、韓国独立記念館の構内には韓国の独立復興記念日(光復記念日)である1945年8月15日(日本が「ポツダム宣言」を受諾した「敗戦の日」)にちなんで、常時、815本の国旗が掲げられています。


天安市の韓国独立記念館には815本の国旗が常時掲揚されています。

ついにその日がきました。植民地統治の頸木から解き放たれる、回天の8月15日がやってきたのです。落胆の余り見上げた空はまっ青で、そのまま消え入ってしまいたい私でもありました。遠い潮騒のようなざわめきがやがて町なかから聞こえはじめ、次第に地鳴りのように歓呼の声が沸き立ってきました。近所の誰もが吸い寄せられるように町なかへと出向いてゆき、私もふわふわとついて行って目もくらむばかりの光景を目の当たりにしました。

観徳亭まえの大通りには盛り上がるほどの人だかりが渦を巻いていて、小躍りせんばかりに万歳(マンセー)、万歳と叫んでいたのです。南門通り、東門、西門通りからも人はなおも続々と集まってきて、夕刻ごろからは初めて目にする朝鮮の国旗、八卦の符丁のようなしるしが四隅に書かれている手作りの紙の小旗が打ち振られだし、喊声はいっそう波のうねりとなって高まっていきました。

それでも私は自分だけが何か場違いの場にいるような気がしてなりませんでした。

(中 略)

16日もただほっつき歩いては、海を眺めてばかりいました。

17日の正午ごろからは目を見張るばかりの出来事が繰り広げられていきました。青年保安隊とか学生保安隊の腕章を付けた若者たちが交通整理から、行政の窓口業務の立会人にまでなっていて、警察官の警邏(けいら)も「建準」(のちほど「建国準備委員会」の略称とわかりましたが)の腕章の学生(本土からきたリーダーたちのようでした)たちが警官らを署内にとどめて、自力で秩序正しく遂行していました。

そればかりではありません。公的機関の国旗掲揚塔には朝鮮の国旗の「太極旗」がひるがえってもいたのです。当時の済州島には本土決戦に備えて7万からの重装備の軍隊が陣地を敷いていましたし、警察、検察、司法の各機関もそのままであったときの、いかにも大胆な若者らによる権力統制でありました。さらに驚かされたのが16日の夕刻から貼り出された「こ奴らを糾弾せよ!」という、第1回分の民族反逆者リストでした。「徴用で同胞の膏血をしぼった奴ら」とか、「大日本帝国主義の走狗、親日派の輩」の名目で、20数名が辻々に書き出されていたのです。摘発はすでに始まっていたようですが、その多くが日本へ逃げを打ったあとだとの噂も出まわっていました。

そのかたわらで、私はますます打ちしおれていました。殊に「親日派」のひびきには身をこごめたものでした。朝鮮という国は何もない国、何も出来ない国と思いこんでいた私でしたので、目の前で繰り広げられている組織立った動きには無知だった自分へのひがみと、うしろめたさがいやおうなく驚嘆の目を見開いてもいました。

父もまたとたんに忙しくなり、青年らによる相次ぐ集会の演(だ)し物、主に民族楽器の杖鼓(チャンゴ)、太鼓、笛(ピリ)、鉦(ケンガリ)の演奏指導に熱を入れだしまして、これが青年文宣隊の始まりともなりますが、元山行きはもう忘れてしまったかのようでした。

(中 略)

自分の国の言葉である母国語の習得から私の「解放」は始まりましたが、意識の目盛りとなって朝鮮語を推し量っているのは、今もってその日本語なのです。日本語はそのために失ってしまった私の過去そのものでもあります。

今年もまたその日本語で8月の夏を想起しています。めくるめく日射しの下で、競り合っていた拳のあの空の青さを。

独立回復直後の京城(ソウル)の様子を的確に日本語で伝えてくれる貴重な証言だと思います。

金 時鐘氏について、ウィキペディアは概要、次のように紹介しています。

1929年1月17日、朝鮮北部の元山市生まれ。現在、日本住む朝鮮人の詩人で朝鮮文学者。全羅南道光州の師範学校卒業。独立回復(光復)後の1948年の「済州島四・三事件」に関わり生命の危険にさらされ、翌年6月5日、密航船で神戸市須磨区付近に上陸し、1952年には「吹田事件」に参画しました。その後、在留特別許可を得て在日朝鮮人の政治・文化活動に参加しました。兵庫県立湊川高等学校の教員となり、日本の公立学校で初めて正規科目として朝鮮語を教え、大阪文学学校理事長なども務めました。1986年『「在日」のはざまで』で第40回毎日出版文化賞受賞。1992年『原野の詩』で第25回小熊秀雄賞特別賞受賞。2011年『失くした季節』で第41回高見順賞受賞。

[著 書]
日本風土記 詩集 国文社 1957
新潟 長篇詩 構造社 1970
さらされるものとさらすもの 明治図書出版 1975 (解放教育選書)
猪飼野詩集 東京新聞出版局 1978.10
クレメンタインの歌 文和書房 1980.11
光州詩片 福武書店 1983.11
「在日」のはざまで 立風書房 1986.11 のち平凡社ライブラリー
原野の詩 1955~1988 集成詩集 立風書房 1991.11
草むらの時 小文集 海風社 1997.8 (陶院叢書)
化石の夏 詩集 海風社 1998.10 (陶院叢書)
なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学 金石範共著 文京洙編 平凡社 2001.11
わが生と詩 岩波書店 2004.10
境界の詩 詩集選 藤原書店 2005.8
金時鐘 勉誠出版 2006.6 (〈在日〉文学全集)
朝鮮詩集 再訳 岩波書店 2007.11
失くした季節 四時詩集 藤原書店 2010.2

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