「旗」の付く言葉③ – 「朱団子」は赤丸が3~5個並ぶ御城米船

江戸時代には幟に「朱の丸」をいくつか付けた幟が幕府の領地(天領)からの年貢米を大坂や江戸などに運び込む廻船(御城米船)専用の標識でした。庶民はこれを「朱団子」と呼んでいました。要するに、幕府の領地(天領)からの年貢米を大坂や江戸に運び込む廻船(御城米船)専用の標識だったのです。日の丸」(「朱の丸」)はいわば官用船、すなわち公儀の船の証としてのみ用いられたのです。各藩の船や私船とはそれで区別しました。

御城米船は新造後7年以内の廻船が使用され、年貢米と乗組員の食用米以外は積載せず、乗組員は身元引受人の居る素姓の正しい者とされました。通航にあたっては港湾などでも優先的に扱われ、万一、難破してもその積荷を奪うことは関係者全員が死罪になるほどの罪とされたのです。

吉村昭は『朱の丸の御用船』は1830(文政3)年9月、その禁を犯してしまった志摩国波切村(現・三重県大王町)沖での出来事とそのための村人たちの悲劇を描いた名作です。

拙著『知っておきたい「日の丸」の話』(学研新書 2010)で、私が江戸時代の「日の丸」の用い方の1つとして「朱団子」について書きました。

水戸藩出身の歴史学者・内藤耻叟(ないとう ちそう 1827-1903)の『徳川十五代史』(1892)によれば、4代将軍家綱の延宝元(1673)年、幕府への年貢米の輸送にあたっては、麻または木綿の布地に「白き四半に大成(たいなる)朱の丸を附け其下面々苗字名是書付、出船より江戸着まで立て置き候様」との幕府布令「城米回漕令条」が出されています。

ご覧ください。左が品川沖、右が芝付近です。今なら東京タワー付近です。

全体はこの30倍にもなるニ隻の屏風です。実際には、幟に「朱の丸」を描き、その下に「御城米」と墨書したもの(早稲田大学図書館が麻布製のものを所蔵)や、「朱の丸」を3~5個、縦に並べたものなどがありました。

『江戸図屏風』を所蔵する国立歴史民俗博物館から特段のご協力をいただきました。

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