古橋廣之進、小野喬と東京オリンピックでの旗布の物語①


古橋廣之進

小野喬

2009年8月2日、古橋廣之進(敬称略)が、世界水泳選手権が開かれているローマで客死しました。戦後の復興期に競泳で世界記録を連発して日本国民を勇気づけ、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた、日本オリンピック委員会(JOC)の元会長、日本水泳連盟の元会長です。享年80歳。

古橋は、日大在学中の1948年夏、400と1500m自由形などで、同じ年ロンドンで開かれた五輪の優勝記録や世界記録を大幅に上回る好タイム連発しました。終戦から3年目のロンドン五輪に日本は何としても参加したかったのですが、ロンドンからの回答は「われわれは(シンガポール沖で沈められた)戦艦プリンス・オブ・ウェ-ルズを忘れない」という来英拒否の通報でした。

それにもめげず、古橋は翌49年にはロサンゼルスで開催された全米選手権に出場し、そこではさらに驚異的な世界新記録という快挙を演じたのでした。

1500m自由形での18分37秒0という数字は今でも暗記しています。

思えば、私がまだ小学生だった頃、1952(昭和27)年、ヘルシンキで五輪が開かれたときのことです。古橋はこれに出場したのです。しかし、既に、その最盛期は過ぎていました。400m自由形ではかろうじて決勝に残りましたが、8位でした。波打つようなNHKの中継ラジオ放送を今でもしっかり覚えています。

「何もかも失った戦後の日本人に古橋がどれだけ自信と希望を与えてくれたか、みなさん、古橋を責めないでください」といった涙ながらの放送でした。当時、私の世話役のようにして同居してくれていた中村京子さんに夜中に起こしてもらって、この放送を聴いたのでした。そして古橋の不運に一緒に泣きました。

白井義男、力道山、湯川秀樹、美空ひばり、長島茂雄、王貞治、大鵬、…国民的ヒーロー、ヒロインをいろいろ見てきました。しかし、敗戦に打ちひしがれた日本人の心をこれだけ励まし、その後の「水泳日本」の基礎をつくっただけでなく、あらゆるスポーツの隆盛を導いたという点で、古橋に勝る人はいないのではないでしょうか。

ところで、そのヘルシンキ五輪から10年を経た1962(昭和37)年から翌年にかけて、なんと私は何度か古橋にお目にかかる機会があったのです。古橋は日大卒業後、日本毛織でサラリーマンをしていました。1964年の東京五輪で掲揚する国旗の布地を、ウール・バンティングという従来の羊毛の旗布にしてほしいと、組織委に売り込みに来たのです。

私は組織委の国旗担当専門職員とはいえ、未だ田舎からぽっと出の学生でした。ですから受け取った名刺を震える手で持ちながら、わが目を疑いました。古橋は憧れの人であり、興奮してただ突っ立ったまま頭を下げて接したのでした。場所は赤坂離宮、今の迎賓館「羽衣の間」。後に、先進国首脳会議を開催した豪華絢爛たる部屋です。この国民的ヒーローを前に、(今同様に純情な)私の緊張ぶりをご理解いただきたいと思います。

同様に、ナイロン旗布は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われた体操の金メダリスト・小野喬(敬称略)でした。東京五輪では選手団の主将を務めました。おまけにこちらは郷里・秋田の大先輩、令名は郷土はおろか全国に轟いていました。その後結婚された、同じく体操の名選手・清子夫人(旧姓・大塚。参院議員3期、元国家公安委員長)は、わが生家のすぐ近くに住んでおられた人で、親交は今に及びます。

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