リベリア①

2011年のノーベル平和賞は、西アフリカ・リベリアのエレン・サーリーフ(Ellen Sirleaf)大統領(72)、同じくリベリアの平和活動家リーマ・ボウイー(Leymah Gbowee)氏(39)、さらに「アラブの春」での活躍が知られる中東イエメンの人権活動家タワックル・カルマン(Tawakkul Karman)氏(32)の3人の女性に授与されました。


アフリカ初の選挙によって選出された女性大統領、
エレン・ジョンソン・サーリーフ。

「君はおぼえているかしら、あの白いブランコ…」(小平なほみ作詞、菅原進作曲)は、ビリーバンバンの歌で一世風靡した私たちの世代の大ヒット曲の1つ。その流儀で言うなら、「君はおぼえているかしら、あの黒い大統領…」ということになるのかな? リベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフさん(1938~)。昨年暮、「平和構築活動に女性が安全かつ全面的に参加できるよう求めて非暴力の活動を行った」ことで、ノーベル平和賞を授与されたのです。

リベリアは1847年、アメリカ第5代大統領ジェームズ・モンローJ.Monroeが一部の奴隷を解放してギニア湾岸に送還したことによって建国された国です。アフリカではエチオピアに次ぐ、現存する2番目に古い独立国です。国名のLiberiaはLiberty(自由)から、首都のモンロビアMonroviaはモンロー大統領の名に由来するものです。

サーリーフさんが、アフリカで女性として初めて大統領に就任した当時のリベリアは、14年間にわたって続き25万人が死亡したリベリア内戦の爪あとが生々しく、経済は壊滅し、電気や水道といったインフラもない状況でした。ノーベル賞委員会は「2006年の大統領就任以降、サーリーフ氏はリベリアの平和の安定と、経済的・社会的発展の促進、さらに女性の地位の強化のために尽くしてきた」とも評しました。

サーリーフ氏の大統領就任は、共同受賞したボウイー氏の努力なしには実現しなかったといわれています。ボウイー氏は、リベリアで恐れられていた軍閥たちに対する女性の抵抗運動を組織した活動家です。ボウイー氏はアフリカ史上最も悲惨な戦争の1つとなったリベリア内戦中、キリスト教徒とイスラム教徒の両方の女性たちからなる大きなグループにセックス・ストライキを呼び掛け、男性たちを和平交渉へ向かわせたのです。

ノーベル賞委員会は、ボウイー氏が「民族的、宗教的な境界線を越えて女性たちを組織し、リベリアの長い内戦に終わりをもたらし、女性の選挙参加の道筋をつけた」とたたえた。

リベリアでは1989年に、ドゥ政権に反旗を揚げたチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)が内戦を起こすと、はじめ彼女はテーラーを支持していたが、その後はNPFLと一線を画しました。1990年9月9日、NPFLから分派したプリンス・ジョンソン率いる分派勢力がドウを捕らえ処刑しました。

その後、リベリアはテーラー、ジョンソン、ドウの残党等の多くの武装勢力が争う内戦に突入し1996年まで継続した。紛争ダイヤモンド疑惑で悪名高いテーラーではあるが、内戦後の1997年に各国監視の下で行われた選挙では75%もの得票数を得て新大統領に選出された。

1997年に彼女はリベリアに帰国して前述の大統領選挙に立候補し落選したものの、当選したテーラーに次ぐ10%の得票を得た。新政権が生まれたにもかかわらずテーラー大統領では国はまとまらず、再度の内戦が発生しました。そして、2003年の内戦終結後にテーラーは国外亡命したのです。

和平後の2003年の選挙では、彼女は有力な候補者として議論に上ったものの、結局多くのグループは中立的立場のジュデ・ブライアントを暫定的大統領として選びました。彼女は国家再建任務のトップに就任している。その後の2005年の選挙においては、対抗馬である元サッカー選手のジョージ・ウェアに挑戦して、積極的な選挙活動を行いました。選挙結果については一連の混乱はあったものの、2005年11月23日に勝者宣言してリベリアの大統領に選出されました。 2006年1月16日の大統領就任式にはコンドリーザ・ライスアメリカ合衆国国務長官やジョージ・W・ブッシュ大統領のローラ・ブッシュ夫人などが出席しました。

大統領就任後は、国民融和のために野党の政治家を複数閣僚に任命しただけでなく、アントアネット・サイエ財務大臣(後にIMFアフリカ局長)のような有能な女性閣僚も何人も起用した。汚職を絶対許さないとの公約を実行するために制度を整備する等の努力をしたものの、彼女の兄弟も汚職疑惑で閣僚辞任する等あり、汚職を完全撲滅することは難しい現実であった。49億米ドルにまで至った国家の海外債務を削減することに努力した結果、その後重債務貧困国としての債務の削減が国際社会に認められた。また、内戦にかかる真実和解委員会を設置したところ、かつてのテーラーとの関係によって彼女自身も厳しく報告書で名指しされることとなった。アメリカや中国との外交関係や地域周辺国との関係においてもその関係強化に努力しました。

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