バングラデシュの誕生① – 「建国の父」ムジブル・ラーマン


パキスタンの国旗。1946年採択。

1971年3月に東パキスタンがパキスタン(権力は西パキスタンに集中)からの独立を叫んだとき、芸術家カムルル・ハッサンによってデザインされたのが、左側の旗。同年12月の第3次印パ戦争の結果、バングラデシュ(「ベンガル人の国」の意)として名実ともに独立を達成しました。


1972年1月13日、ダッカの元競馬場でバングラデシュ政府の発表で、100万人の聴衆を集めて行われた独立式典で、演説する帰還したばかりのシェイク・ムジブル・ラーマン初代首相。帰還当日「100万人」を前に演説するムジブを私はステージの真横に座っていて撮影できた。拙著・日本語版にもバンガル語版にもこの写真は掲載された。

当時、私は国際赤十字の駐在代表としてこの戦争を現地で体験し、実見したのですが、解放(そのほとんどはインド軍の進攻)された町や村では、どこに隠し持っていたのかと思うほど、あっという間にあらゆる建物にバングラデシュの旗が掲げられたのをこの眼で見ました。きょうの食事に困っても、文字通り、旗幟(きし)鮮明、自分はバングラデシュの独立を支持するとの意思表示をこの個々の家での国旗掲揚で見せ付けられました。東パキスタンの大多数の人たちがいかに西パキスタンの人たちを嫌っていたのかはこの一事で判りました。

翌年1月13日、西パキスタンの獄舎から解放されたシェイク・ムジブル・ラーマン(ムジブ、「建国の父」。1920~75)は翌年1月13日、ロンドン経由、英国機は穴ボコだらけだったダッカ空港のかろうじて修復したばかりの滑走路に着陸、私はタラップの下で出迎えました。100万人とも言われる人々の中を元競馬場の広場に進み、仮設の演題で、ムジブは文字通り声涙下る演説をしました。私は同じ演台にいましたから、人々の興奮振りがよく理解できました。


「独立の父」ムジブはパキスタンの獄舎から釈放され、ロンドン経由で特別機でダッカ空港に帰還した。著者撮影。

ダッカ空港から元競馬場に向かうムジブ。
著者はそのトラックを先導するトラックに乗っていて撮影した。

バングラデシュのノアカリ地区で救援物資を配る著者。
インド独立の直前の半年間、ガンジーはイスラム、ヒンドゥー両教徒の対立が最も厳しかったこの地区に滞在して、両者の和解と協調を試みたが、果たせず、英領インドはインドとパキスタンに分離独立した。
そのパキスタンが東パキスタンを植民地のような扱いをし、1971年3月、ついに独立のための武装決起となり、同年12月、インドの介入で、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。

当時、わずか4人だけ残った日本人の一人として、また、国旗を学ぶ学徒として、その後、中央部を5枚の布で縫い合わせて作るこの国旗の製造上の問題をできたばかりの政府の指導者に指摘しました。「日の丸」に似ているからと言って、デザインに関わった人やムジブの心のどこかに、潜在的に日本の国旗への思いがあったという人がいますが、さてどうでしょうか、少なくとも日本人から言うべきことではないのではないでしょうか。

ただ、私はムジブとは何度かお目にかかりましたし、誕生日が同じ3月17日で、暗殺されたのが1975年の8月15日(日本の敗戦危険日)というようなことも、それこそ潜在的に影響しているのでしょうか、今でも、ムジブには妙な親近感を持っています。1973年に公賓としてムジブが来日したときも、福田赳夫外相(当時)と早川崇日本バングラデシュ協会会長(衆院議員)の依頼を受け、私は歓迎会を取り仕切り、赤十字の恩師である橋本祐子(さちこ)先生を司会者に、ステマネ(ステージマネージャー)かブタカン(舞台監督)のようなことをしました。その後で、晴海から早川衆院議員の選挙区である和歌山の串本港までフェリーでご一緒したとき、船内で、バングラデシュの国旗や国のあり方についてじっくり忌憚ない話をさせてもらいました。

また、「パキスタンの国旗が月だから、バングラデシュの国旗はそれよりも強い太陽になった」という人がいますが、そんな話はムジブどころか現地では誰からも聞いたことがありません。


アジア最初のノーベル賞受賞者タゴール

それよりも、「アマル・ショナール・バングラ(我らが麗しきバングラ)、アミ・トマエ・バロワシ(私は永遠に愛する)」というラビンドラナート・タゴール(1861~1941)の作詞による国歌を持つバングラデシュは、毎年3回以上の米作がかない、紅茶やジュート麻の産地でもあります。世界遺産にもなっている、南西部のシュンデルバン(美しい森)地方にはベンガル虎が棲息しています。この国が、独立して40年、ここ10年余り行っていませんが、この間に労働集約的な産業の誘致と育成に成功して、なかなかの発展をしていると聞くのはうれしいことです。

農業を表わす緑と、太陽の赤であり、あのときの独立戦争で犠牲になった人たちの血を思わせる赤。縁ある者として、バングラデシュの平和と発展を切望してきた私としては、もう、犠牲と流血の赤という説明には、耳を塞ぎたくなる思いです。

人口抑制、教育水準の向上はかなり進んだようです。あとは不毛の政治対立の克服して、安定した経済発展の実現を祈念するのみです。

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