ポルトガルの栄光④ – 暗黒時代を血で克服した旧ポルトガル領の東ティモ-ル


東ティモールの国旗。
苦難の末、達成した独立の意義をこの旗にこめている。

東ティモールはポルトガルの支配した拠点の1つですが、1975年、インドネシア軍が西ティモールから侵攻し、11月末にインドネシアが東ティモール全土を制圧し、1976年に同国27番目の州として併合宣言を行ったのでした。

時は未だ冷戦下、国連総会ではインドネシアによるこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されましたが、日、米、豪、欧など西側主要国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認したのでした。

このため、インドネシアのスハルト政権は東ティモールを激しく弾圧、20万人にのぼる人々が殺害されたと報道されています。とりわけ、1991年、静穏なデモ行進にインドネシア軍が無差別銃撃を加えた「サンタクルス事件」では、400人近い数の住民の大量殺戮事件として国際的にも大問題になりました。


ペロ司教

ラモス=オルタ大統領

1996年にはノーベル平和賞が「東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決へ尽力」したとして、現地カトリック教会のカルロス・フィリペ・シメネス・ベロ(1948~)司教と独立運動指導者のジョゼ・ラモス=オルタ(2007年からの大統領)に贈られました。

1998年にインドネシアでスハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施することでポルトガルと同意し、東ティモールはよくやく独立へ出口が見え始めたのでした。

その後もインドネシア軍はあの手この手で破壊と虐殺を続け、暴力行為の収拾はオーストラリア軍を主力とする多国籍軍(東ティモール国際軍, INTERFET)の派遣を待たねばなりませんでした。1999年10月には、国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立、2002年まで独立を率いました。

その後の制憲議会選挙ではフレティリン(東ティモール独立革命戦線)が圧勝し、大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に独立式典を開催することが出来ました。独立後、国連は国際連合東ティモール支援団(UNMISET)を設立、独立後の国造りの支援を行いました。この中で、日本の自衛隊も国連平和維持活動(PKO)として派遣され、また、国連の伊勢崎賢治職員(現・東京が以後大学教授、難民を助ける会副理事長、「紛争解決請負人」)は2000年3月から2001年5月まで、 国連東ティモール暫定統治機構上級民政官の立場で「知事」として活動しました。

なお、2007年の選挙ではラモス=オルタ現大統領を中心とする野党連合が反フレティリン連合を組んで勝利し、それ以降、フレティリンは野党に転じています。

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