戦時に登場する国旗 – 「日の丸」


花岡萬州「無錫ニ入ル中島今部隊」

この絵は早稲田大学會津八一博物館所蔵のもので、2009年には同博物館(旧大学図書館)で萬州の特別展が開かれたので、私も見に行ってきました。大学での展覧会でありながら、戦争画には学生がほとんど関心を持っていないようなのは残念でした。

無錫は江蘇省の都市、上海から南京にむかう途中に位置しています。典型的な城郭都市で、かつては「小上海」といわれるほど繁栄していたところだそうです。1937年11月25日、上海から無錫に入った中島今朝吾中将(1881~1945)の率いる第16師団の部隊が、さらに当時の中華民国の首都・南京攻略に向うところです。


中島今朝吾中将

他の部隊とともに、3週間ほどの戦闘を経て、12月13日、南京を陥落させました。中島部隊は「南京事件」に直接関係した可能性が高いとされていますが、確証はありません。第一、「南京事件」そのものがあまりに誇張された話になっているのでは、冷静な議論が難しく、残念でなりません。

日本軍は激戦の末、無錫に入城しました。中国側の主張では日本軍入城の際に1万4千人が犠牲になったということですが、これもまた「南京で30万人殺害」の類で、とても信用できる話ではありません。

2005年、私は上海と南京で、中国側の二人の専門家とお目にかかり、「南京事件」についての見解を聴きました。「日本軍は30万人を虐殺したというのはあまりに政治的な数字です」「日中両国の学者が協力して良心に照らしたアカデミックな数字を出す必要があります」。

私も決して日本軍が不当な殺害を加えた例がないとは思いません。しかし、それはあくまでも限定的なものであっても、非戦闘員は一人たりとも危害を加えてはいけないのです。その点は、日本側もきちんと反省しつつ、中国の誇大な発表を訂正させてゆくべきであるとかんがえます。

それはさておき、この絵では右の家が「日の丸」を掲げていかにも帰順し、日本軍を歓迎しているかのようですが、実態はどうなのでしょうか。

戦争と国旗の関係は実に微妙なものがあります。士気を向上させるツールともなるし、独立や解放の象徴ともなるのですが、時には、屈辱のシンボルとなったり、恨みが込められたりします。無錫のような光景はあちらこちらで見られたのでしょうが、はたして「日の丸」はどういう経路でこの家に立ったのでしょう。

早稲田大学は、こうした作品をぜひ、学外でも公開し、広く、戦争について考えさせる契機とすべきではないでしょうか。大学のCSRと考えます。

なお、作者・花岡萬舟については、以下をご参照ください。

【参考】「内野光子のブログ」より、転載させていただいたものです。

花岡萬州については生没年も不明で、著作権継承者を探索中だという。本名田中亀一、新聞記事などにより1901年、浅草生まれと推定され、京都の山元春挙に日本画を学び、1920年代後半、朝鮮総督山梨半造の知遇を得た後、軍部との縁が深く、1937年上海事変における爆弾三勇士も描いた。中国での活動が長く、「陳張波」を名乗って情報収集をしていた時期もあったという。日本の美術界で、その名が知られたのは1940年開催の「聖戦報告展」であった。軍部や宮家とのつながりとその絵の大衆性が知るところとなり、1941年忠愛美術院(中島今朝吾陸軍中将総裁)を設立、忠心愛国の戦争画を中心に展覧会を開催、傷痍軍人による作品も募集、後、傷痍軍人たちの更生の一環として絵画の指導も行った。中野鷺宮の住居がその活動の拠点にもなったが、この地を離れた後は、隣人たちの話によれば広島の原爆で亡くなったということだ。(これらの絵を早稲田大学に寄贈した)広島の住野家との縁でもあったのだろうか。ちなみに、この鷺宮のアトリエ付き旧居には、後、経済学者向坂逸郎が住み、向坂夫人の没後は法政大学に寄贈されていたが、これも近く取り壊しの予定だという。

1937年日中戦争開始後、陸海軍省報道部は中央画壇の錚々たる画家たちを戦地へ、従軍画家として派遣した。1939年の第1回聖戦美術展を皮切りに、1945年4月に至るまで、軍、新聞社、画家(団体)などの連携で、幾多の美術展が全国巡回して開催され、国民の戦意高揚の一端を担った。花岡の活動は、これらの動きとは異なる軌跡をたどりながらも、同様の役割を果たしたことになるだろう。

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