ネパールの三角形の国旗が消える?


現在のネパール国旗

1962年末までの旧ネパール国旗

読売新聞、朝日新聞などの報じるところによれば、ネパールで難航していた、憲法制定を巡る協議が加速しているようです。

最大の難関であった対立勢力の兵力が、統合されたのです。4月10日、ネパールの国軍が「毛派」(ネパール共産党毛沢東主義派)兵士を吸収する形が出来ました。「毛派」は、1990年にネパール共産党(統一派)として創設、95年に今の名前に改称。翌年から10年以上武力闘争を続けました。この内戦で約1万5千人もが犠牲になりました。

2006年、王制打倒で足並みをそろえた各党と「毛派」間で和平協定が結ばれ、内戦終結が宣言されました。08年4月の制憲議会選挙で第1党となり、翌月の議会で王制廃止を決めました。しかし、その後も「毛派」は軍事力を保持してきました。その上、「毛派」はかねて全兵員が国軍に参加することを要求していましたが、共産主義を標榜する元ゲリラの編入に消極的だった他の政党や国軍側との交渉が難航し、ネパール会議派や統一共産党は「毛派が武力を維持したままでは憲法に関する話し合いはできない」と反発してきました。

それが和平から6年を経て、今回、国軍の指揮下に入ったのです。1万9千人の「毛派」兵士のうち約3000人は軍や警察で採用されましたが、残りは、他の職業に就くなどして兵役を離れました。除隊の様子を朝日新聞の特派員は、<階級に応じた「退職金」50万~80万ルピー(1ルピーは約1円)の半額分の小切手を一時金として政府から受け取っていた。荷物を抱え故郷に向けて家路につく姿も見られた>と報道しています。

これによって同国最大の政治的懸案が解決したことで、2008年の王制廃止後の国のあり方を決める新憲法制定へ、機運が高まっているようです。

今回、「毛派」が国軍への統合に踏み切った背景にも、憲法制定が進まないことへの国民の批判があったとみられます。

もちろんこれで全てが解決したわけではなく、これまで4度延長された制憲議会の任期の満了が5月27日に迫る中、主要政党は党首間の非公式協議を開始したという状況です。未だに、連邦を構成する州の数や大統領制とするか議院内閣制とするかなどで意見の隔たりがありますが、各党とも妥協の姿勢を見せているので、憲法の制定に大きく道が開かれたと見ていいのではないでしょうか。

問題は国旗です。
国旗は2つの3角旗を合わせたという、他に例を見ないユニークなデザインになっています。この国旗は長くネパールの2大名家とされたシャー王家とラナ宰相家の各三角形の旗を重ねてできたものです。

1962年12月、マヘンドラ国王が近代化の集大成として、立憲君主国の基本を定めた憲法を採択したときまでは、月と太陽のそれぞれに顔(目鼻など)を描いたものでした。

この憲法で国旗をはじめ、さまざまな公式制度が明確かつ詳細に定められました。国旗に関しては前文第9条で基本的な形状を説明し、さらに付属書では数百語を費やして、具体的かつ詳細に幾何学的な作図法を文章で詳述しているのです。

国旗の月は王室を表わし、太陽は宰相一家を表わすとされ、〈月や太陽のようにネパールが長く栄えるように〉という願いがこめられていました。しかし、その後、上述したように国王、議会、「毛派」の三大勢力の争いが続き、議会の停止、武力対決といった中で、2001年、王族のほとんどが殺害されるという事件が起き、国内は一層混乱し、2006年には、それまでの王を讃える歌詞であった国歌を変更しました。

そして08年5月28日にギャネンドラ国王が退位したものの、依然、各勢入り乱れての政争で、安定した国づくりは進まず、王政を廃止したため、とりあえず国名はネパール連邦民主共和国となりましたが、国旗の変更には至っていません。しかし、この国旗はこうした場合に各国で行われてきたように、このユニークなデザインが全面的に変更になることも、ありうると言わざるを得ません。新憲法が注目されるところです。

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