赤旗の歴史③ – 大杉栄と荒畑寒村らが明治末に振って逮捕

わが国での赤旗の最初の使用は劇的でした。前回ご紹介した日本共産党からのハガキにもあるように、「赤旗事件」(錦輝館事件)のときが事実上、最初といっていいでしょう。


大杉 栄

荒畑寒村

すなわち、1908(明治41)年6月、東京神田の錦輝館で、社会主義者・山口義三(よしぞう、孤剣。雑誌記者、評論家)の出獄歓迎会を開いた際、大杉栄(1885~1923)や荒畑寒村(1887~1981)やらが「無政府共産」と書いた赤旗を掲げて屋外行進をしようとして警察官ともみ合い、検挙された事件のときです。それまでの量刑も含み、このあと2年半近くの刑務所生活を送ることになりました。10年11月に出所しましたが、翌年1月に幸徳たちが処刑され、社会主義運動は一時的に後退したのを、荒畑寒村とともに復活させました。

そんな中で、この年、ジャン・アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』を日本で初めて訳し、出版したのが大杉です。

荒畑は、前年から管野(すがの)スガと内縁関係にありましたが、この「赤旗事件」で検挙され入獄し、結果的に、同じ仲間の幸徳秋水らの事件(大逆事件)での検挙・処刑を免れました。もっとも、入獄中、先に出獄したにスガが幸徳秋水に走り、二人は離縁となりました。「大逆事件」というのは、1910(明治43)年、宮下太吉、新村忠雄らが幸徳や管野と天皇暗殺を密謀したとされる事件。判決は有罪・死刑となり、翌1911年1月25日、秋水ら11人が刑死、スガも翌日に処刑されました。死に臨み、スガは大杉栄夫妻に手紙を送り、荒畑にも言葉を遺したということです。

荒畑は戦後、日本社会党の結成に参加。1946年以降、東京4区から衆議院選に立候補、2期国会議員議員を務めました。戦前戦後のわが国の共産主義、社会主義運動の動きの中で常にリーダー的な役割を担う立場にあったのですが、そのプロフィールはあまりに複雑で、私には理解できない転変としたものです。しかし、晩年には「死なばわがむくろを包め 戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という短歌を遺しているのですから、終生の大部分は赤旗とともにあった人ということが出来るでしょう。

大杉 栄は、思想家、作家、社会運動家、アナキスト。父は陸軍軍人、親戚にも軍人がいるという家庭環境で、本人も名古屋陸軍地方幼年学校に14歳で入学。修学旅行中に下級生への性的行為を行い禁足30日の処分というのと、同期生との喧嘩でナイフで刺される騒動を起こして最優秀の成績でありながら、操行不良で退学処分になったのは世に知られている逸話ですが、その後、1902年、東京外国語学校(現・東京外大)仏文科に入学。幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に共鳴。平民社の結成を知り、頻繁に平民社に出入りするようになりました。フランス語とエスペラント語を操れたそうです。ですから、赤旗を持ち出したのは大杉のフランスに関する知識の中から出てきた行動ではないでしょうか。

1923年(大正12年)、国際共産主義運動の会議で中国人を装って訪仏、パリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕され、「日本人・大杉栄」であることが判明、客船で強制送還、7月11日神戸に戻りました。上京して、8月末にアナキストや共産主義者たちの連携を図りましたが、その直後の9月1日に関東大震災に遭遇。同16日、大杉栄・伊藤野枝の夫妻と大杉の甥・橘宗一の3名が憲兵隊に連行された上、殺害されました。主犯は甘粕正彦憲兵大尉とされていることから甘粕事件と呼ばれています。

赤旗を日本に導入した大杉の末期は悲惨でしたが、その進取の精神、努力、根性といったものはなかなか敬服すべきものがあるように思います。

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