赤旗の歴史① – 赤旗から三色旗を守ったラマルティーヌ

赤旗は1789年のフランス大革命の頃には「戒厳令」が出たことを示す旗でした。1791年7月17日、パリの練兵場に平和的示威行動のために5万人の大群衆が集まったのに対して、ラファイエット将軍が国民衛兵隊に命じて発砲した「シャン・ド・マルスの発砲(虐殺)事件」がありました。死亡したのは、14~5人ですから、しばしば言われてきたような「虐殺」事件とは言えないかもしれませんが、この事件を契機に国民に大きな人気を博していたラファイエットの人気は凋落し、また、厳令旗である赤旗が、逆に、革命の旗印に転じるようになったとされています。


赤旗の勢力を駆逐し、三色旗を守った
ラマルティーヌ

国民衛兵隊に発砲を命じるラファイエット

19世紀の前半には空想的社会主義(またはユートピア社会主義)が盛んでした。これは、近代的な社会主義(科学的社会主義)思想の初期的な思想を指して言う言葉であり、シャルル・フーリエ、アンリ・ド・サン=シモン、ロバート・オウエンが特に著名です。この人たちは別に赤旗を掲げて闘争したわけではないようですが、赤旗は次第に過激派、社会主義者、共産主義者に受け入れられ、世界史的にはっきりと社会主義や共産主義の象徴とされたのは1848年のフランス「2月革命」の時ではなかったでしょうか。


1848年2月25日、パリ市民ホール前で、赤旗を拒否するラマルティーヌ。
アンリ・F・E・フィリポトーの絵。

アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790~1869)が「赤旗はサン・マルタン広場を一周したが、三色旗は世界を一周した」とのいかにも「詩人政治家」らしい名言で、フランスの「赤化」を阻止したのは有名です。政治家としてのラマルティーヌの絶頂期とでも言える瞬間でしょう。

ラマルティーヌはフランス・ロマン派の代表的詩人で、近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派といわれる詩人たちにも大きな影響を与えている人です。貴族出身で軍人や外交官となり、1820年の『瞑想詩集』は近代フランス抒情詩の嚆矢として高く評価され一躍注目された作品です。1830年の7月革命以降、政治運動にかかわり、33年には国会に議席を持ち、王党派と社会主義派の中間的で理想主義的な考え方であったといわれています。

この間にも詩のほか、小説や『オリエント紀行』(1835)、歴史書『ジロンド党史』(1847)などを出しています。1848年の2月革命で、臨時政府の外務大臣となりましたが、同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(後の皇帝ナポレオン3世)に敗れ、そのクーデターで政界を退かざるを得ない状況になりました。

1848年といえば30歳のカール・マルクスと28歳のフリードリヒ・エンゲルスが「二月革命」のさなかに「共産党宣言」を発表した年です。しかし、マルクス夫妻は官憲に捕らえられ、8月末、エンゲルスの招きでロンドンに亡命、以後、亡くなるまでほとんど毎日、図書館に通って研究をし続け、67年には『資本論』を上梓しました。

赤旗はこのあと、本格的に社会主義・共産主義のシンボルとなり、1917年のロシア革命に至るのです。さらに人種平等、肌の色が違っても流れる血は同じ赤といった考え方や、血を以って革命を成就させようといった考え方から世界中に広まっていったのでしょう。

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