フォークランド紛争から30年、依然続く対立③


イギリスの国旗

1982年のフォークランド紛争で敵対したイギリスとアルゼンチンは浅からぬ縁があるのです。ご存じのとおり、英国は世界最大、最強の帝国主義的侵略国家として「太陽の沈むところなき海洋国家」だったのですから、南緯35度東経60度という、ブエノスアイレスでもお構いなし。フォークランドはそのブエノスアイレスも真南、南緯41度ですから、英本国からは地の涯に行くような気分でしょうが、昔からお構いなしだったようです。

19世紀初頭、ラプラタ地方はスペインのリオ・デ・ラ・プラタ(ラプラタ川)副王の支配下にありました。しかし、植民地人(クリオーリヨ)たちは、本国スペインの副王による植民地政策に不満を持っていました。

一方、南米への勢力拡張を考えていたイギリスは一部の植民地人に取り入り、貿易額をふやしていました。1806年、数隻のイギリス軍艦が喜望峰を出発、ブエノスアイレスを襲い、一時的に、スペインの副王を追い払い、関税の引き下げを宣言しました。しかし、大半の植民地人たちはこれを潔しとせず、フランス軍人の指揮下で英軍と戦い、これを駆逐しました。これにより独立への機運は急速に高まりました。青と白はこの時戦った植民地人たちの軍服の色に由来するものといわれています。英国軍は翌年にもブエノスアイレスを襲いましたが、この時も駆逐されました。

1806年、1807年の二度に亘るイギリス軍の侵略を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めた植民地軍は1810年5月25日、「五月革命」に立ち上がり、ブエノスアイレスは自治を宣言し、周辺にも盛んに軍事攻勢を仕掛けました。しかし、コルドバを併合することには成功しましたが、1811年の北部軍総司令官マヌエル・ベルグラーノ将軍(1770~1820)によるパラグアイ攻略は失敗に終わり、同将軍は、サン・マルティン将軍(1778~1850)が後を継いで、スペイン王党派最大の拠点ペルーやチリの解放に当たりました。その後も、スペイン王党派軍との戦いが厳しいまま続きました。

独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言しましたが、ベルグラーノ将軍はインカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようと主唱し、ホセ・ヘルバシオ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、さらにはブエノスアイレスには自由貿易を唱えながら、貿易独占を求める勢力などもあり、独立諸派の意見はばらばらで、最終的にアルゼンチンが今の形になったのはイギリスの介入によってモンテビデオ条約が結ばれ、アルゼンチンの東方州だったウルグアイが、1828年にウルグアイ東方共和国として独立した時でした。

蛇足かもしれませんが、今でもアルゼンチンは南極大陸に1千平方キロの領土を保有しているという立場です。


ベルグラーノ将軍は、アルゼンチン独立の指導者であり、国旗を制定した人。

シモン・ボリバルと並ぶラテンアメリカの解放者、ホセ・デ・サン・マルティン将軍。
ボリバルの名は、ボリビアとベネズエラの国名になっている。ベネズエラは正式には「ベネズエラ・ボリバル共和国」。

ところで、国旗のデザインを決めたのは、ベルグラーノ将軍。ロサリオでのスペイン副王軍との戦いの後、両軍がスペイン国旗と同じ色である赤と黄色の旗であるのは不味いということで、戦闘終了後、まるでイメージの違う空色と白のデザインにしたのです。


1818年制定のアルゼンチンの国旗における
五月の太陽

1828年のウルグアイの国旗における五月の太陽

五月の太陽(Sol de Mayo)は国旗の太陽は、独立戦争中は雨が降り続いていましたが、勝利の日には照り輝いたという“五月の太陽”で、この国の独立の象徴です。アルゼンチンとウルグアイの国旗に描かれているもので、インカ帝国の太陽神インティを象徴しているとされています。「五月の太陽」は最終的に1813年に承認されました。アルゼンチンの最初の硬貨(8エスクードの価値があった)の模様を模しています。太陽はそれぞれ16の直線と曲線からなる光線を発しています。

なお、国内で民間が掲げる国旗や徽章等に使用されるときは「五月の太陽」が省略されるときがあります。

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