福沢諭吉が国旗の書を書いていた

福沢諭吉(1835~1901)もまた世界の国旗について書いていることを、昨日、国立国会図書館で確認しました。『条約十一国記』という書を「慶應二年 仲冬」、すなわち、1867年11月に上梓しているのです。


福澤諭吉著『絛約十一國記』
(下はデンマークの商船用国旗)

福沢諭吉。
文久2年(1862年)、パリの国立自然史博物館にて撮影

ここで福沢は、米、蘭、英、魯(ロシア)、仏、葡(ポルトガル)、孛(プロイセン)、瑞(スイス)、白(ベルギー)、伊、丁(デンマーク)、すなわち当時、わが国と国交を持つ欧米11カ国について、国旗と国情とを小冊子にして紹介しているのです。

福沢は幕末、最も多く海外渡航をした一人ではないでしょうか。この書には各国の印象など、その体験と思われる内容もたっぷり盛り込まれています。国旗付の旅行案内書や見聞録、あるいは欧米の歩き方…のような一書です。同様に、福沢は『西洋事情』や『世界国尽』などを出し、読者の目を海外に向けさせる啓発家、教育者としての面目躍如たるところを見せているように思います。

福沢の最初の海外渡航は、日米修好通商条約の批准書交換のための訪米使節団に、咸臨丸が護衛という名目で随行した際のことです。遠洋航海の練習船のような立場だったといってもいいでしょう。万延元年1月19日(1860年2月10日)出発したこの船に、福沢は艦長である軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗船することができたのです。勝安房(海舟、1823~99)も一緒でしたが、どうもこの二人、関係は終生、微妙なものがあったようです。

次に、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福沢は竹内保徳を正使とする文久遣欧使節の一員として英艦・オーディン号で欧州へと向かいました。同行者にはほかに薩摩藩の松木弘安(寺島宗則、1832~93)、津山藩の箕作秋坪(しゅうへい、1826~86)らがいました。寺島は日本の電気通信の父と呼ばれる功績があり、また、第4代外務卿としても活躍しました。箕作が東京に開いた三叉学舎は当時、福沢の慶應義塾と並び 称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などを輩出しています。


文久2年(1862年)オランダでの福沢諭吉
(左から二人目)。
右から柴田貞太郎、福沢、太田源三郎、福田作太郎

福沢が、立ち寄った香港で英国人が中国人を犬猫同然のように扱うことを見て、強い衝撃を受けたというのは有名な話。その後、一行はシンガポールを経、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を西航し、マルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ユトレヒト、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪れました。

同年12月11日に帰国後、福沢は63年、『西洋事情』を刊行、同書は、「理化学・器械学」に重点を置き、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備についても言及しているものです。

福沢は次に、慶応3年(1867年)、幕府の軍艦受取使節を率いた笠間藩士・小野友五郎(1817~98、和算・数学者・海軍軍人・財務官僚)の随員として郵便船コロラド号で横浜から再びアメリカに向かいました。この時はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.などを訪れました。津田 仙(1837~1908、農学者で学農社の創立者。同志社大学・青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人。津田塾の創立者・梅子の父)や尺 振八(せき・しんぱち、1839~86、翻訳者。ハーバート・スペンサーの書を『斬氏教育論』の題で翻訳し、「sociology」の訳語として「社会学」という言葉を初めて使用した人)なども同行しました。

訪米から戻った福沢は『西洋旅案内』と『条約十一国記』を書き上げたのです。

翌、慶応4年5月15日(1868年7月4日)に、上野で彰義隊ら旧幕府軍と薩長両藩を中心とする新政府軍の間で戦闘が行われていたさなかでも、福沢は草創期の慶應義塾で講義を続けていたことでも知られています。

ところで、当方、お察しの通り、1万円札にはあまりご縁がないのです。こちらは大いに親しみたいのですが、なぜか向こうが居つかないのです。また、わが偏見か、僻みかとは思うのですが、なぜ慶應の福沢諭吉が大事にされ、わが早稲田の大隈重信は千円札にもならないのか、何とも解せないのです。そんなことで、福沢の著書は多少読んだ程度でしかなく、これまで研究の対象としたことがありません。

ところが、なんと、その縁の薄い福沢が『条約十一国記』と題して国旗とその国の状況を紹介する本を書いているのですから、正直言ってびっくりし、浅学菲才を恥じました。これからは「この縁」にすがって「肖像をカラー印刷している四辺形」の確保にあたらなくては、と思い直した次第ではあります。

ところで、この本の表紙、20星は厳密には1818年7月4日から 1819年7月3日まで(以下、月日は同じ)の1年間だけのデザインです。もしかして、1822~36年までの14年間も続いた24星、1837~45年までの8年間続いた26星、1851~58年までの7年間続いた31星(ペリー来日時)、あるいは福沢が初めて訪米した1861~63年の2年間掲げられた34星の「星条旗」、それとも。2度目に訪米した1867~77年までの10年間続いた37星だったのかもしれません。ちなみにその他の数の星を並べた「星条旗」は1、2年で改訂されているのです。

それにしても、福沢先生、「星条旗」の紅白の条は1818年以来13本です。それが11本というのは、少々アバウトが過ぎませんでしょうか。

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