甲子夜話の実際の内容


松浦静山が「魯西亜漂舶幟幵和蘭軍船用法大略」で紹介しているロシアの皇帝旗(上右)、海軍旗(上左)、国旗(下・中列左)など。海軍旗は白地に青の斜め十字。5月23日に、平戸市歴史史料館で実際に色の付いたものを羽意見させていただく予定です。この写真は、平凡社東洋文庫『甲子夜話』より転載。

松浦静山(まつらせいざん、前平戸藩主)が『甲子夜話』の巻95で、ロシアの国旗や商船旗について記したものが、日本に現存する最古の外国旗を解説した書物であるということは以前に述べました。

著者はその中で、友人の「蕉軒」が、文化元年正月に「石橋助左衛門」から差し出された「魯西亜漂舶幟幵(ならびに)和蘭軍船用法大略」という興味深い一書を篋(はこ)の中から捜し出したと次のように書き出しているのです。

「或日蕉軒、一書を示て曰。篋中捜出の蠧冊(とさつ)、改写せよと。予迺(すなわち)移謄、こヽに例す。表紙に記す戉辰正月、顧るに文化五年なり。
戉辰正月石橋助左衛門差出、魯西亜漂舶幟幵和蘭軍船用法大略」。

ここは少々説明がいるように思います。まず、「蕉軒」ですが、林 述斎(じゅっさい 1768~1841)大学頭のことです。松平乗蘊岩村城(現在の岐阜県恵那郡岩村町)主の三男です。田沼意次を中心とする「寛政の改革」に学問・文化の面で中心になって関わった人物です。

また、石橋助左衛門(1757~1837)は「阿蘭陀通詞」として名高い石橋家の7代目で、当時トップの大通詞です。寛政以降、外交が活発になるにあたり、重要な応接通弁を務めました。商館長ドゥーフ(ヅーフ)や医務官で日本の情報を収集したことでも知られるシーボルトと親交があり、例えば、ロシアからレザノフが皇帝旗を押し立てて長崎にやってきたときには、1804年8月8日付のドゥーフの日記には次のように記されています。『長崎オランダ商館日記』を参照にした松方冬子『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』(中公新書)に拠ります。

船の到着後、私は直ちに御内用方大通詞の中山作三郎と石橋助左衛門とを呼び、次のように言い渡した。すなわち、フランス共和国と同盟関係にあるオランダと、イギリスの間に再び紛争が生じているが、速やかに集結するであろうと噂されている、私がこのことを風説書に添えて(奉行所経由幕府に)提出すべきか否か、彼らはどう考えるか、と。彼らは長い間話し合った後、これが今知らされたら大きな問題が生じるので、この件については黙っていることで意見が一致した

三人はさらに突っ込んだ話し合いをするのですが、国旗の話とはかけ離れますので、以下略とさせてください。要するに、石橋助左衛門はわが国と欧米諸国の中で唯一交流のあるオランダからの情報を完全に握って、調整するという大役を担っていた人なのだということを示したかったのです。ちなみに、御内用方通詞というのは、将軍のための輸入品を選別して優先的に買い上げ、それを江戸に送るという目的で設けられた特別の役職で、長崎の通詞の中から指名されるものです。助左衛門その大通詞なのですから、実力と実権が備わっていた人かと思います。

また、石橋助左衛門はシーボルトによる講習会でも通詞を務めたことがあり、そうした仕事の関係で『夷酋問答編』(文化6年)を初め、数冊の著作を遺している人です。「この時代には実務家の力が大きくなっており、外交の主役になるのは将軍や幕閣よりもむしろ長崎奉行やオランダ通詞、あるいは長崎の商人たちだった」(岩下啓典『江戸将軍が見た地球』)とあるように、実際上、通詞の役割はとても大きなものになっていたのでした。

つまり、松浦静山が国旗について書くことになったのは、今風に言うなら、通訳の石橋がオランダ人からもらった本を、学界を取り仕切っていた林に提出し、それをしばらく放っておいた林が静山に、「面白いから読んでみたら」と勧め、これは大事な内容だと、静山が『甲子夜話』に書き記したということのようです。

ところで、この記事の前半は、「蛮国軍船名」として、オランダの海軍所属のリイニイ、フレガット、コルヘット、ブリッキ、スコーネル、ロックル、コットル、ガレイの8つの軍艦について、帆柱、搭載している砲などについて紹介し、「同じようなものがロシアにもあるのかとオランダ人に聞いたがそれは分からないとの答えだった」というのです。

つづいて、その記事は、「魯西亜漂舶幟」について12の旗の図を掲げながら「候国王幟幵壱号船幟の外は、都て艫(とも)に建候幟を以て目的に仕候。尤相図の旗は建所定なく、所々に相用ひ申候」とし、具体的に説明しているのです。つまり、「皇帝旗以外は国旗であり、都で掲揚しているものである」というのです。

さらに、白旗を使っての降伏の意思を示すことも書いているのです。ペリーは砲撃の構えをしながら、日本側に白旗を献上したのですが、その数十年も前に、日本側では白旗の意味を知っていたということなのです。

一、艫の旗を引下げ候時は降参を乞候しるし。其時は先(まづ)攻口を弛め、小船より役掛りの者三四人も囗囗敵船に乗移り、士卒の帯剣悉く請取、人質として船頭幵役掛りのもの連帰り、其外何事によらず此方の下知に随ふものなり。

一、小船に白幟を建、喇叭或は太鞁など打鼙漕来る時は、和睦を乞候歟、又は使者来ると知るなり。(注:鼙の正しい文字は上が革と皮、下も革)

一、赤幟を引上げ候時は戦ひを始るの相図にて、又赤幟を引下げ白幟を引上げ候時は和平の相図と知るなり。

一、海軍駈引等は壱号船より裁配いたし、相図の旗を以て諸船に知らせをなし、素より敵陣に悟られざる様兼て相図を定め、一統に示し合置なり。

一、大船を曲江に乗り入るには順風の時を考へ、先迫門に繰碇を下し置き、其網を本船に引き、図のごとく岬々にも又碇を下し置き、其網も同じく本船に引き、湊内に乗入申候。自然敗軍におよび不時に退陣の時は、其碇網を本船の巻胴に仕掛け、逆風たりとも速に沖へ繰出し申候。扨又岬々にも後陣の船を備置き、皆此ごとくにて曲江に乗り入申候。
右桁々、阿蘭陀人共より兼て及承候趣書載仕候。併魯西亜にては如何相定候哉之儀、阿蘭陀人におゐても聢(しか)と相心得不レ申候由物語仕候。此段以書付奉申上候。以上。

注:最後の部分については入江の図が入っていますが、省略します。

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