幕末の国旗研究⑦ – 岩瀬文庫は幕末国旗研究書の宝庫(上)

『国書総目録』(岩波書店)によれば、当時の世界各国の国旗を紹介しているもので現存する一番古いものは愛知県西尾市の岩瀬文庫の所蔵になる『萬國國旗圖及檣號圖(しょうごうず)』。天保11(1840)年のものです。

愛知県西尾市は上野介で有名な吉良町の北隣に位置しています。1221年に足利義氏が築城して以来という城下町。肥料商を中心に金融、鉄道、電気、繊維産業等を行い、町長、町議としても活躍し、しかも読書家であった岩瀬弥助(1867~1930年)が「四十二の男の大厄」を迎えて社会奉仕をと考え、また地域文化の向上のために役立とうと決意(西尾市資料館『岩瀬文庫稀覯本=きこうぼん=展展観目録』)」し、私財を投じて明治40(1907)年に建物を完成、今日では彼の収集した約十万冊の貴重な蔵書を持つ全国でも稀な図書館となっています。

そのほとんどが極めて貴重な書籍というのに、岩瀬文庫は何度か行きましたがあまり訪ねる人のない様子です。係の人に聞いて見たら、年間400~500人ぐらいのもの、とのことでした。以前は、木製の引出しに納められている古い分厚い検索カードが全部、筆書き。”タイム・トンネル”に、すぅーっと入って行く気分でめくったものでしたが、今ではすべてコンピュータ化されました。それはそれでいいのですが、逆に使用規則でがんじがらめ、かつては自由に写真撮影できたものが、1コマずつ申請し、お金を払って専門の業者に依頼するしかないというのですから、改善されたのか、改悪されたのか分からないというのが実感です。

現存する日本最初の総合的国旗図鑑、『萬國國旗並檣號圖』は『檣號圖』と『萬國國旗圖』の2巻の巻物。いずれも27.4センチ幅ですが、前者は719センチの長さに66の国旗、後者は1、355センチの長さに184の国旗が、極彩色のすばらしい筆使いで描かれています。

画いたのは貴志孫太夫。『檣號圖』には「貴志忠美、KISI TADAJOSI, Keizerlijk Lijfwacht」と、漢字とオランダ語の印鑑が押してあり、肩書は「幕府小納戸」をオランダ語に訳したもの。

『萬國國旗並檣號圖』を開いてみました。
国名や旗の種別の訳語に苦労がにじみでているのがすぐ判りました。今でも国旗については定まった日本語のないことが多く、horizontal tricolour を横三色旗、ほかに横二分旗など、東京オリンピックを前に私が勝手に訳したことばがかなり定着した程度ですから、鎖国下においてはどんなに大変であったか、しのばれます。満足な世界地図さえない時代に、きっと手さぐりの状態だったのでしょう。

オーストリアとオーストラリアは区別が出来なかったのか、「アウスタラーノ」の旗として赤白赤の横三色旗に紋章の入ったハプスブルク家のオーストリアの旗が英国の属領として扱われています。

さらにまた、ケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)の白青の横7条と2つの剣を持つワシを描いた旗や「ユニオン・ジャック」をカントン(竿側上部)に付け、残りの部分4分の3を赤にした英国の civil ensign (市民旗)を「地下人ノ替旗(じげにんのかえはた)」と訳しています。今日なら「国民旗」とでもいうべきでしょうか。

中南米で紋章を取り除いた旗が国内で広く用いられているように、一般の国民が国内で用いる国旗をいうことばです。鎖国下における先人の労苦とその先駆的研究にただただ頭の下がる思いがします。

労苦のほどはいくつかの「注意書き」にも表れています。「亜墨利加」の国旗は13条に16星を星型に並べたものになっていますが、これには「文化4丁卯(ひのとう)年長崎渡来ボストン舩」のものであるとあります。星の並び方や条と青地の接する数などからして、孫太夫本人が長崎で写生したものではなく聞き伝えを画いたものと思われます。

なぜか「Japan 日本国」も違っていました。「赤地に2本の交叉する剣、そして三日月」というのはこれは当時の蘭領バタビア(ジャワ)の旗です。そして幕府が「御軍艦義、御國印、白地日の丸」と定め、「日の丸」を日本国総船印として公式に定められたのは安政元(1854)年で、当時も、白地に黒い横の帯のものを採択しそうな雰囲気でしたから、これは無理もないのかと思います。

使用法を紹介する書も

岩瀬文庫ではまた『萬國旗印(26.1×18.0㎝)』を拝見した。これもここにしかないものです。木版折たたみ式のもので16頁にそれぞれ12の旗を紹介しています。

「弘化三丙午(ひのえうま)初冬」の刊行とありますから『萬國國旗圖及檣號圖』の6年後、1846年の初めということになります。「弘化三」年といえば孝明天皇即位の年であり、「海防の勅諭」が出され、米仏デンマーク等外国船の来航が続きました。4年前、アヘン戦争が終わり、2年前、オランダ国王から幕府に開国を勧める書状が送られた年です。翌年には島津斉興が老中・阿部正弘に琉球の開港を願い出てこれを実現しています。そんな中での刊行です。危機感がにじみ出ている思いです。

同じ年に出版された『外蕃旗譜』や『萬國旗鑑』も現存しています。この時期、海防上も国旗の識別資料の整備は緊要だったに違いありません。

『萬國旗印』には総数189旗が紹介されていますが、何といっても目立つのは冒頭のオランダの国旗(赤白青の横3色旗)。他の4つ分を占めて大きく画かれているのです。オランダの国旗が特別扱いなのは、「時代」ということと、おそらくは“種本”がオランダ語のものだったのではないでしょうか。

全体に大きな間違いがなく、各国旗が極めて正確に紹介されています。「蛮書左讀横行、此圖ノ如キモ亦然リ。編中、同ト略譯スル所ハ其ノ左ヲ見ルヘシ。漢土ノ書ノ例ニ非ス」というのも興味深い「注」です。

『萬國舶旗圖譜(18.8×12.3㎝)』は松居信(南袋松居)の編になるもので岩瀬文庫以外にも、東京の静嘉堂文庫や神戸大学など5ヵ所に現存していることが確認されていますが、私はこれも岩瀬文庫で拝見しました。表紙は桐の薄い板なのです。「嘉永甲寅(きのえとら)秋新雕・不老館蔵板」というのですから、1854年、まさにペルリの再来航で明けた年であり、日米、日英の各和親条約が結ばれた年の刊行です。国旗研究もいよいよ重要な公務となり、その責任が現実味をもって来たようです。

注目すべきは、同書が国旗の使用法について触れていることと「萬國略圖」を画いていることです。

使用法は「敵ヲ欺ント欲シテ大澈ヲ発シ偽旗ヲ建ツル等ノ事ハ決シテアル事ナシ。各國會盟シテ定メタルトコロノ法ナリト云」「港内近ク乗リ来テ其地勢ニ熟セズ郷導(あんない)ヲ乞ハント欲スル時ハ舳檣ノ上ニ自國ノ旗ヲ建ツ」といった具合いでもっぱら海上での使用についてです。こういう記述のあるのはこの時代の本ではこれだけです。「萬國略圖」ではカラフトのすべて、エゾ、リウキウ、大日本、そして太平洋の島々が日本と同じ赤色になっています。プチャーチンとの日魯通好条約(1855年)の直前のことです。太平洋の島々は千島のことか伊豆諸島のことかこの地図でははっきりしていません。

折たたみの画集のような形の中に480もの旗を紹介しているのには驚くほどです。中には「意太利亜國教化王府旗」、すなわちバチカンの旗まで載っています。1861年にイタリアが統一し、1929年のラテラノ協約で今のバチカンになったのですが、現在の国旗の原形ともいうべき金と銀の鍵が交叉した旗が当時の教皇領で用いられていたことが判ります。

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