幕末の国旗研究③ – 北辺の対露警備、太平洋岸での米船対応

19世紀の初め、日本で言うとペリーが浦賀に来る半世紀ほど前の日本周辺状況を見ておきましょう。

1808年、長崎で起こった「フェートン号事件」のことは既に述ベました。この事件は、38門もの大砲を積む英国艦フェートン号が、偽ってオランダの国旗を掲げて来航したことから始まりました。

この事件以降、長崎奉行所はオランダ船と「旗合わせ」を行い、確認することになりました。これはあらかじめ決めた約束に従って、各種の旗を順番に挙げて行くことにより、偽装を防ぐという方法です。

また、この時期、ロシアと接する北辺も騒々しくなってきました。「日本に対しては武力をもっての開国強要しか方法はない」と考えたことのあるレザノフの部下フヴォストフが単独で1806年には樺太や利尻の松前藩の番所を、翌年には択捉の港など各所を襲撃するというフヴォストフ事件(文化露寇)が起きていました。

1804年、ロシアの皇帝旗(双頭の鷲の旗)、国旗(現在と同じ白青赤の横三色旗)、海軍旗(白地に青の斜め十字)を掲げ、皇帝の親書を持ったニコライ・レザノフが長崎に来航し、通商を求めました。幕府は半年間も待たせた挙句、レザノフの要求を拒否し、レザノフ一行を退去させました。レザノフは大いに怒り、その意を汲んだとされる部下のフヴォストフらが、1806年10月、武装商船2隻で樺太のアニワ湾に上陸、松前藩の出先の番所を襲撃し、日本人4人をカムチャッカに拉致、翌年6月に釈放しました。

これに対して幕府は翌年3月に蝦夷地全域を幕府直轄領としましましたが、フヴォストフらは4月には択捉島ナイホを襲撃、夜襲で南部藩・津軽藩を敗走させ、警備にあたっていた6人の武士を捕えた。さらに、5月から6月にかけて、今度は北海道西北の礼文、利尻両島周辺で日本の船を襲撃し、利尻島に上陸、放火、略奪、拉致など大暴れをしました。拉致されたのは10人でしたが、内、8人は利尻島で釈放されました。

幕府は、同年12月に「ロシア船打ち払い令」を出しましたが、事件後にはゴロヴニン事件が起きており、ロシアとの緊張関係が続いた時代です。

北辺の危機を憂慮した幕府は、蝦夷地警備の強化策を講じ、1807年5月に、会津、秋田、仙台、弘前のか各藩などに北辺警備を命じ、合わせて約3千人がその任にあたりました。ただし、1807年と言えば、ヨーロッパではナポレオンの全盛期、ロシア兵は西に転じざるをえず、交戦はありませんでした。

各藩は寒さと食糧不足、とりわけ野菜不足で栄養のバランスを失し、かっけなどの病人続出となり、1808年夏の帰還までに、斜里の津軽藩だけで72人が死亡し、17人だけが生き残りという惨状でした(「松前詰合日記」藩士の斎藤勝利による記録)。

斜里で津軽地方の伝統行事「ねぷた」が行われるようになったのはこの悲劇によるものです。

会津藩は帰還途中、乗船・観勢丸が利尻島近くで暴風雨により沈没し、数人が亡くなりました。さらに一部は天売島、焼尻島に避難するなどしましたが、計で51人が死亡しました。現在も利尻島、焼尻島、宗谷岬などにこの人たちの記念碑やお墓やあります。

津軽、南部、秋田の三藩にはその後も何度か蝦夷地警備の命が下り、実施されました。

4年ほど前、私はこれらの地を調査に周りました。利尻島に三吉(みよし)神社という秋田市にある「梵天祭り」で有名な神社の分祀があり、また、古老からの聞き取りテープというのを聞きましたが、明らかに秋田弁と似た点が多く、残留を余儀なくされた人もかなりの数に上ったのではないかと想像できました。

私は今まで北方領土と言われる島々に10回以上参りました。その時にいつも思うのでしたが、北海道の北辺や北方領土にはかなり大きな蕗が自生しているのです。わが故郷の秋田は「秋田蕗」といって「雨が降っても傘などいらねぇ」とその大きさを「秋田音頭」で歌われている巨大な蕗があるのです。これが、北辺警備にあたった武士たちが持ち帰ったのではないかと考え、秋田県農事試験場に文書で問い合わせたことがあるのですが、何らお返事をいただけませんでした。どなたかその由来をご存知の方がおられましたら、ご教示ください。

閑話休題。こうした情勢を受けて、幕府は1825年、異国船打払令(無二念=むにねん打払令)を発した。日本の沿岸に接近する外国船は、理由を問わず、見つけ次第、即座に砲撃し、追い返したりまた、上陸した外国人を捕えたりしました。

しかし、1837年、三河出身の音吉ら7人の日本人漂流民を乗せた非武装の米国商船「モリソン号」を幕府の命により薩摩藩が砲撃して追い払ったのです。この「モリソン号事件」がきっかけとなり、異国船打払令に対する批判が強まりました。続くアヘン戦争(1840~42)での清の敗北を受け、幕府は1842年には同令を廃止し、薪水を提供して退去させるという方針に変更したのでした。

モリソン号
モリソン号

外国の国旗を研究することの必要性は、いよいよ高まっていたのです。

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