オランダ国旗で騙して侵入したイギリス船


「阿蘭陀船入津之図」長崎港内で号砲を放つオランダ船を描く。説明文に「今年寛政十二庚申年」とあります。1860年、まさに、オランダはナポレオンのフランスによって消滅させられていたころの、長崎の光景です。上欄のオランダ語の文は「長崎港におけるオランダ船到着の光景」の意。文錦堂は長崎版画の代表的な版元の一つ。

長崎は私が大好きな町の1つです。いろんな歴史を学ばせてくれることが興味をかきたててくれます。

2010年6月には、NHKの大河ドラマに合わせて龍馬ブームの観光客が大勢来ていましたが、私はまず出島をゆっくり見て歩きました。出島は以前見たときより随分整備されていましたし、広く感じました。特に、注目したのは国旗掲揚塔。出島復元の願いを込めて、史実に沿って建造され、雨天を除いて日本とオランダの祝祭日には、赤白青の横三色旗であるオランダの国旗が掲げられているそうです。


現在の長崎市出島の国旗掲揚塔

オランダの祝祭日は、キリスト教に関係したもののほか4月30日の女王誕生日、5月5日の解放記念日など全部で11日あるのですが、日本は13日、これだけで計24日間、オランダの国旗が翻るということのようです。このほか、出島でイベントがあるときにもオランダ国旗が掲揚されるそうです。

長崎奉行所の役人もしていた狂歌の太田蜀山人(南畝、1749~1823)は「和蘭館」と題して、「紅白旗翻百尺竿…」と、詩の中で詠んでいます。おそらく当時は長崎を訪問する人はこの三色旗には驚きの気持ちを抱き、新鮮さを感じたのではないかと思います。「紅白旗」と言っているところを見ると、あるいは船尾の紅白の旗がこの粋人の目に留まったのかもしれません。これはオランダ東インド会社の旗です。

オランダは1793年にフランスに占領され、ウィレム5世はイギリスに亡命しました。これにともない、オランダの東インド会社は1798年に解散しましたが、社旗はそのまま使われていたのかもしれません。

1806年、ナポレオンは弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランスの支配下に置かれることとなりました。

それでも、世界でここ1ヶ所では、オランダ国旗が掲げられていたと言われています。

その間、出島駐在の「甲比丹」(カピタン=商館長)はヘンデリキ・ドゥーフ Hendrik Doeff(1777~1835) でした。1799年から16年間も出島暮らしをし、毎日、オランダの国旗を掲げ、故国を思いつつ、その栄光を死守していたのです。

ところが、この間に、イギリスは亡命してきたオランダのウィレム5世の要請という形でオランダ植民地の接収を図りました。そうした中で文化5年8月15日(1808年10月4日)、イギリスはフリゲート艦フェートン号に、オランダ国旗を掲げて油断させ、長崎港へやってきました。

待ちに待った自国船を迎えたと思ったオランダ商館員ホーゼンルマンとシキンムルは、日本人通詞らとともに小船でフェートン号に近づきました。そこで英国側は本性をあらわし二人の商館員を連行、国旗を「ユニオンジャック」(正しくは「ユニオンジャック」をカントンに置いた赤い旗=red ensign)に換え、攻略すべきオランダ船を求めて港内を探索、長崎奉行所に薪水や食料の提供を要求しました。

長崎奉行・松平康英(1768~1808)は、ドゥーフを長崎奉行所内に匿いつつ、武力を用いて英艦の排除を図ろうとし、福岡藩・佐賀藩・大村藩などに打払いを命じるものの、有事に対する備えのなかった当時の藩兵兵力のあまりの少なさ、弱さ、動員の遅さで果たすことができませんでした。加えて翌16日にフェートン号側からは薪水と食料を提供しなければ港内の船舶や長崎の町を焼き討ちすると脅迫されたため、松平康英自身は武力衝突になったとしても相手側の要求をあくまでも退ける姿勢でいたのですが、ドゥーフも要求を受け入れたほうがいいと助言し、打ち払う力のないことが明らかであり、やむなくこれに従わざるを得ませんでした。

オランダ側も豚と牛を送り、なんとかイギリス人乗組員をなだめすかし、17日、人質の釈放を果たし、フェートン号を長崎から退去させました。しかし、意に反してであれ、他国の脅迫に屈してしまった責任を取り、康英は切腹してこの事件は終焉しました。享年41。長崎奉行という幕府の要職にある者が切腹したことの与えた衝撃は甚大なものがありました。

国旗を悪用するという事例はこればかりではありません。また、外国だけがやったことでもありません。日本でも戊辰戦争のさなかに行われたことがあるのです。これについてはいずれあらためて紹介したいと思います。

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