エストニア物語①

「暗黒の時代」を潜り抜けたエストニア


エストニアの国旗

バルト3国のうち、最も北に位置するのがエストニア。首都タリンからフィンランドの首都ヘルシンキまでは高速フェリーでなら1時間半で着くという近さです。

13世紀以来デンマーク人、ドイツ系の騎士団に支配され、スウェーデンとロシアの北方戦争を挟んで両国に支配される時期もありました。

1917年のロシア革命でロマノフ王朝が倒れるとエストニアでは急速に自治獲得から独立をめざす運動が行われるようになりました。1918年2月24日に独立を宣言、21年には国際連盟にも参加しました。しかし、40年にソ連軍に占領され、翌年から44年まではナチス・ドイツに占領されました。さらに、第二次世界大戦末期にはソ連軍に再占領され、挙句は反ソ行動を行う可能性のある人たちを「シベリア送り」とし、国は併合されて独立を完全に失いました。

この強引な手法による併合はアメリカをはじめ、多くの西側諸国の認めるところとはならず、たとえば、ワシントンには、エストニア旧政府の「公使館」を公認し、「公使館」は白青黒の横三色旗を、引き続き掲揚していました。Ernst Jaaksonはアメリカで最長期間勤めたエストニア旧政府の外交代表であり、1934年からは副領事、65年には1988年には独立を目的とするエストニア人民戦線が設立されました。89年8月23日にはバルト3国の首都であるタリン、リガ、ビリニュスを結ぶ「人間の鎖」運動に100万人が参加し、独立回復への気運は急速に盛り上がりを見せました。特に、「ベルリンの壁」の崩壊や東欧諸国の民主化の波がバルト3国に大きな影響を与え。翌1990年5月12日にはタリンでバルト3国の首脳会議が開かれ、ソ連に併呑される以前にあった「3カ国会議」の復活を宣言し、これが、事実上の独立回復宣言となりました。8月、モスクワでは守旧派によるクーデタ未遂事件が起こり、エリツィンとその支持勢力により秩序の回復が図られたとはいえ、連邦としてのソ連の「タガ」が一挙に緩みました。その結果、9月6日にはソ連が独立回復を承認、エストニアはラトビア、リトアニアとともに直ちに国連への加盟を申請、これを果たし、ニューヨークの国連本部前には、国際連盟加盟当時の白青黒の横三色旗が翻りました。

そんな中、9月7日、朝日新聞「天声人語」は次の一文を掲載しました。今は懐かしい名文家・白井健策さんの執筆によるものです。

国旗に関する著作も多い吹浦忠正さんに教えられ『萬國旗』という本をひもといた。1938年(昭和13年)発行、定価「金8圓」。著者は吉川晴帆という人である。目的は、むろんバルト3国の国旗を見るためだ▼「バルト3国が独立していた戦前の日本で刊行された、世界的水準の国旗の本です」と吹浦さんが言う。厚さ4センチほどの本の「欧羅巴洲」の部に、3国がもちろん別々に載っている▼まず「リスアニア」。「共和國」とある。横3色旗で、色は上から黄、緑、赤。「古来、緑野に銀の甲冑の騎士を描いた……緑野を青色に、銀色の騎士を白色に見立て」たと旧国旗の説明もある▼次に「ラトヴィア」。やはり「共和國」だ。濃いアズキ色の地を上下に分ける形で白い線が中央横位置に走っている。そして「エストニア」。この「共和國」の国旗も横3色旗で、色は上から青、黒、白である▼バルト海に沿って、南の国が暖かい色で、北の方が寒色ということになる。第1次大戦のあと、3国とも独立を達成したが、『萬國旗』発刊の翌年、つまり1939年に歴史が変わる▼ナチス・ドイツとソ連とが結んだ不可侵条約の付属秘密議定書に、エストニア、ラトビアのソ連併合、リトアニアのドイツ併合(のちにソ連が併合)などが盛り込まれていたのだ▼色鮮やかな3国の国旗は、すでに今年の春、モスクワでのエリツィン支持派の集会で人々の手に握られ、振られていた。ふたたび、3国の全土で、歓呼の声とともに振られ、ひるがえることだろう▼あらためて『萬國旗』のページを繰ってみる。巻頭はむろん「日本國」。「帝國」とある。次が「満洲國」。これも「帝國」。その国旗は、大地を表す黄色の地の左上に、南東西北を表す赤青白黒の4色をあしらったものだった▼消えた国旗。よみがえる国旗。時代の変転を示す、しるしだ。

Ernst Jaaksonは同年11月25日、エストニア大使としての証明書を発行したのでした。

メニュー