世界に羽ばたく韓国人とサハリン残置の韓国人


大韓民国(韓国)の「太極旗」

古くは指揮者であり作曲家として今の韓国の国歌を作った安 益泰(アン・イクテ)、最近ではバンクーバー冬季五輪を征した金 姸兒(キム・ヨナ)さんの華麗な演技、そして世界の平和構築と維持のため東奔西走を続ける潘 基文(パン・キムン)国連事務総長…、世界的に活躍する韓国人は枚挙にいとまがありません。最近でも指揮者の鄭 明勲(チョン・ミョンフン)さんは自身が音楽監督を務めるフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と北朝鮮の銀河水(ウンハス)管弦楽団の合同演奏会を3月14日にパリで開催することを明らかにしました。同じ東洋人、東アジアの隣国に住む一人として、こうした韓国の人たちの大活躍はとても嬉しく、大きな拍手を送ります。

韓国の国旗「太極旗(テグキ」は今、世界中で誇らしげに翻っています。

しかし、戦中・戦後の朝鮮半島とのことを考えると、あまりに辛い話がありすぎます。ここでは、1905年のポーツマス条約で割譲され日本領土になった(それ以前は1855年に日露混住の地となり、75年の樺太千島交換条約でロシア領になった島)樺太(サハリン)を中心に、コリアンの人たちについて考えてみたいと思います。

戦前から樺太に在住し続けているコリアン系のAさんは、奥様とは日本語で対話しています。戦前に日本語で高等教育を受け、本人に言わせれば「青雲の志を抱いて」上京し、「夢を追って」樺太勤務を希望したのだそうです。しかし、「敗戦で残置の運命にさらされ、内地にも半島にも戻ることができず、教育は日本語でしか受けてこなかったので、ロシア語より、朝鮮語より、やはり毎日使ってきた日本語が一番です」という人です。このようにサハリンで暮らすコリアンたちは、日本政府や軍に強制的に送られた人などほとんどなく、企業で勤務するサラリーマン、工場労働者、鉄道勤務者、炭鉱労働者などとして渡樺した人がほとんどです。

終戦後、サハリンに残留した人々のことを思うとき、私は3つの大きな問題に思い至ります。

第1は、2千万人以上を戦争で喪ったソ連が自国復興のための労働力として、4万人を超えるコリアン系の人々の帰国・帰郷を認めず、ソ連に強制残置したこと。これは重大な人権侵害です。

それ以前にもスターリンは極東地区のコリアンたちを「対日協力者になる可能性がある」として中央アジアに強制移住させ、今でもウズベキスタンやカザフスタンには多くのコリアンたちがいます。なぜでしょうか、日ソ開戦となった場合に備えたというのがスターリンの言い分です。

アメリカ西岸地域の日系人が山中に強制移住させられたと同じような理由でしょう。

私には韓国に住む韓国人、在日韓国・北朝鮮系の人たち、サハリンで暮らすコリアン系ロシア人、中央アジアに移住させられた後、モスクワで活躍している人…いろいろなコリアンと親しくしてきました。その一人だったのが、後にソ連科学アカデミー東洋学研究所の副所長であったゲオルギー・キムさんでした。所長が亡くなったとき、この国際政治学者が後釜になるというのは大方の予想だったのですが、カラーシンという外務次官が横滑りしてきました。日本や欧米の専門家たちは、「やはりね」と異口同音にその出自を思いながら、気の毒な話だと頷きあったものでした。在米コリアンにも経済界で大活躍している友人がいるし、そうそう、ちょっとややこしい事情から南米のパラグアイにも、コリアンは集団で住み着いていました。首都のラパスの近郊でそうした人たちが大勢暮らしている地区の学校を見せていただき、自らの翻弄された運命の不思議さのようなことを感じました。

ややこしいいというのは、本来アメリカに移民して行くはずが、何らかの理由で入国を拒否され、いまさら帰国できないということで「代替地」を求め、パラグアイに向かったという経緯なのだそうです。

第2は、米英などソ連以外の連合国がこの集団拉致ともいうべき強制残置にほとんど関心を示さなかったこと。また、たとえ関心を示したとしてもやがて始まった冷戦時代にあってはこの問題に手を付けることは至難だったことです。

第3は、日本政府が戦後、これらの「かつての同胞の帰国に長期間、関わりを避けてきたことがあります。また、日ソ国交回復が遅れ、ようやく1956年の「日ソ共同宣言」で国交の回復がなったのですが、それまであまりに時間がかかり、日ソ交渉にあたっては、抑留された千余名の最後の人たちの帰国、北方領土の帰属、日本の国連加盟問題など、山積する枢要な課題に集中し、在樺旧同胞のことまで気が回らなかったことです。

終戦時、樺太在住のコリアン系の人たちは、日本人と一緒に引揚船に乗ろうと真岡(現ホルムスク)や大泊(コルサコフ)の港まで行ったに拘わらず、ソ連兵に追い返され乗船がかなわなかったことです。その後数十年、人種的、言語的、宗教的、経済的な差別にさらされたり、実に気の毒としか言いようのない日々を余儀なくされました。さりとて、戦勝国民として「太極旗」を掲げることもかなわず、ソ連国籍の受諾を事実上強制されたのでした。

ちなみに、ソ連軍が北朝鮮に進駐した時のピョンヤンでの記念式典では、演壇の後ろに掲げられていたのは「太極旗」でした。

のこされたコリアンたちは、加えて、冷戦の進捗に伴い、親日派、韓国望郷派、北朝鮮シンパ、親ソ連共産党、反共でソ連時代に溶け込めない人、ロシア本土の朝鮮人と関係のある人たちなど複雑な構成となり、苦難の時代が続いたのでした。

日本人も当初は700人以上が残留しました。後に王子製紙の社長になり、日ソ経済委員会のトップにもなった河毛二郎さんなども、約10カ所にあった王子製紙の工場管理要員として確か7年余、留め置かれた人である。サハリンにあった王子製紙の工場の多くは20世紀末まで操業を続けていました。

今でも200人近い、残留日本人がいて、その協会事務所のようなところが、かつて樺太庁があった旧豊原(ユジノサハリンスク)あり、ここ20年くらいはさまざまな事情で残留した日本人たちのたまり場になったり、連絡の場となっています。

これに対し、コリアン系の人たちは約5万人と見られています。1994年に韓露両国の国交が樹立され、は今では、ユジノサハリンスクと仁川空港の間に頻繁に大韓航空機が飛んでいます。この便で、帰国した在樺朝鮮人も少なくないし、一時訪問を果たした人はとても多いのです。

しかし、「家族や親戚との再会には感動もあるし、苦しさもあった」「長期間、あまりに違った社会を生きてきたので、価値観が違いすぎる」と50年ぶりに一時帰郷して両親の墓参りをしたというCさんや友人のKさんは結局、サハリンでの老後を決意しました。

Cさんによれば、「共産国家のソ連で長く過ごし、文化や価値観に齟齬ができ、長年、音信不通の親戚が豊かに発展した韓国に来ても、簡単には溶け込めない、厄介者扱いになるという印象しか持てなかった」。

私は10数年前、サハリンでコリアン系の人の結婚披露宴に招き入れられたことがあります。式場の前を歩いていると外で喫煙している何人かに「ぜひ会場に」といわれ、入り込んだのです。宴たけなわでした。するとなんとメインテーブルに座らされ、飲食に預かってしまったのです。なんでも、一週間ほどこの調子で祝宴が続くのだそうです。「これが昔からの朝鮮の結婚式です。戦後のことを知らない私たちはこうして故郷を懐かしみ、アイデンティティを確認するんです」。

それよりさらに前、モスクワで在ソ・コリアンの学者・ジャーナリスト数人と宴席を持ったことがあります。その時に、当時、IMEMO(ソ連科学アカデミー世界経済国際関係研究所)のユ・ハック(柳 学亀)上級研究員だった(元モスクワ放送勤務。その後、ソウルに移り住み韓国籍となりLGの顧問)から聞いた話です。「モスクワではいつも、こういう時には今、朝鮮…いや韓国ではやっている歌謡曲を歌う人がいます。やはりどこにいても民族としての故国は朝鮮であり、韓国なんですよね。で、その首都である京城…、懐かしい名前ですね、いまはソウルで歌われている流行歌を録音テープで入手したりして覚えるんですよ」。同じく名通訳としてユさんと並び称せられていたヴィクトル・キムさんからも同じような話を聞いたことがあります。

コリアン系ロシア人の中には、1991年のソ連崩壊後、ロシアたちが経験したことのない自由経済社会にあって生き生きと活躍し、大なり小なりかなり成功した人もいます。日本時代に自由経済のなんたるかを知っている人たちだからなのでしょうね。確かに、ユジノサハリンスクの駅前市場などに行くと、コリアン系の「オバサン」たちが牛耳っている様子が見られます。また、モスクワでIT産業や広告部門で成功した人もいます。

今や世界に羽ばたき、世界で大活躍するコリアンたちですが、その過去には実にお気の毒としかいえない100年余の歴史があるのです。日韓両国は一衣帯水、隣国民どうし、各地で大いに協力し合いたいものです。

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