美人薄命 – 四字熟語と国旗 番外編


1945年に制定されたユーゴスラビアの国旗。
91年の連邦崩壊で廃止された。

白赤のチェックはシャホブニツァ(Šahovnica)と呼ばれている。紋章は左から、中央クロアチア、ドゥブロブニク、ダルマチア、イストラ、スラボニアの5地域を表している。

スロベニアの国旗。紋章を除けばロシア国旗と全く同一になる。

モンテネグロの国旗。双頭のワシについては別途記述します。

長野冬季オリンピックの直前に決定したボスニアヘルツェゴビナの国旗。▽は国土とセルビア、クロアチア、ムスリムの三大民族の調和を表わす。EUへの感謝とEU加盟の希望を表してEU旗から採ったデザインになっている。

「四字熟語と国旗」の番外編は「美人薄命」です。
ユーゴスラビアのことを書きます。今では旧ユーゴスラビアというほかありません。この国は1992年に事実上、崩壊したのです。

ユーゴスラビアの国旗は青白赤の横三色旗の中央に、黄色で縁取られた赤い星という国旗。正直言ってこれが「美人」であるかどうかは、人間世界と同じで「蓼食う虫も好きずき」の類かもしれません。ま、そこは穏やかに。

もともとはオランダの国旗。それをピョートル大帝が「スラブの盟主」としてロシアの国旗に取り入れ、それをさらにユーゴ(南)スラブ人の国の意であるユーゴスラビアが1919年に取り入れたものです。戦後、社会主義を標榜する国になって、まるで「美人」がマスクで隠すかのように、中央に大きな星を加えました。

独自の社会主義路線を歩み、モスクワとは距離を置きつつ多民族国家の理想を追ったヨシップ・ブレズ・チトー(1892~1980)でした。クロアチア人の父とスロベニア人の母との子で、早くから政治に志、奇跡ともいえる建国と対ドイツ・パルチザン闘争を率いました。ユーゴスラビアの統治の難しさは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現されましたが、その理想はチトーの死去後、あえなく崩壊し、今ではコソボを入れ、7つの共和国になってしまいました。スロベニア、クロアチア、コソボ、セルビア、モンテネグロ、ボスニアヘルツェゴビナ、マケドニアの7つです。

私はユーゴスラビア時代とその崩壊後も行っていますので、いろいろな思い出があります。
長野での冬季オリンピック(1998)年の時は組織委の式典担当顧問でしたので、1982年に同じく冬のオリンピックを開催したサラエボのことを思い出していました。このボスニアヘルツェゴビアの首都は1992年のユーゴスラビアの崩壊以降、まるで廃墟と化し、開会式場だったスタジアムは兵器庫と化し、戦場でした。

16年後の長野オリンピックにはそうした中からも選手団がやって来、1月30日の選手村での入村式では白地に青い紋章という臨時の国旗を掲げました。選手団も同じ旗を持っていました。2月7日が開会式です。1週間前になって三つの案が審議されているという情報が入りました。もう待てません。とりあえず、3種類の旗を製作し、開会式での入場行進用と主会場に掲揚できるように手配しました。

結局、2月4日に、このいかにも斬新な国旗が採択され、時差の関係もあり、5日に連絡が入りました。ボスニアヘルツェゴビア政府としても、長野オリンピックの場を通じて、世界に新国旗のお披露目をしたいということだったのでしょうが、組織委としてはこんなにはらはらさせられたことはありません。製作にあたった名古屋の服部(株)は実によくやったと思います。

サラエボでのオリンピックでは、スピードスケート男子500mでメダルを期待された黒岩彰が9位に留まったこと、逆に、伏兵・北沢欣浩が銀メダルとなりました。このオリンピック、日本はスピードスケートで初出場となった1932年のレークプラシッド・オリンピック以来、これが52年目にして初のメダルの獲得でした。

長野オリンピック当時、私は難民を助ける会(相馬雪香会長)の副会長の任にあり、「サラエボのみなさんに毛糸のひざ掛けを送ろう!」という呼びかけをしていました。9×9センチのモチーフを全国のみなさまに編んでいただいて、それをつなぎ、数千枚のひざ掛けにしてお届けしました。今だから話せるのですが、新聞でこのことを知った皇后陛下からも9枚、自ら編まれたモチーフをいただきました。拝受に参上し、お優しいお心遣いに感動したものでした。

クロアチアやモンテネグロにも思い出がたくさんあります。中でも、わが失敗?は、間違えて、あるヌーディスト島に上陸したことです。本当に間違えたのです。1979年、青少年の国際交流をどうやって盛んにするかという世界規模の会議がクロアチアの最南東端・ドゥブロブニクで開催されました。1日の休会日をはさみ、10日間ほどの会期中、私は一度、ドゥブロブニク沖のマクシミリアン帝のお墓に行ってみようと決め、マクシミリアン島行きの観光船に乗ったのです。

この皇帝はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟で、メキシコの皇帝となったのですが、旨く行かず、最後は処刑されてしまいました。

そこで、20分ほどかかって着いたのがなんとヌーディスト島。それとは知らず、カメラを肩に悠然と丘に向うと、「おい、こらっ!」(たぶん!)という声。文字通り、身ぐるみはがされカメラも取り上げられて、あとは夕方まで船が来ないのです。来たときの船がマクシミリアン島に行くのは確かですが、そんな物好きは私一人、それとは知らず乗客がみんな降りたので、ここだと早合点、一緒に下船してしまったのです。

そんな幸せはないと思われたらそれはとんでもない誤解。ほとんどがドイツからのオジサン、オバサン。それはいいのですが、何の恥じらいもなくすべてが開けっ広げ。海上を行く船に手を振ったり、読書したり、ギターを弾いて「お前も歌え」などと催促するのです。

「いやぁ、私は間違えて下船してしまったのですから」などと言っては、日本男児の名が廃る・・・というほど肩に力が入ったわけではないのですが、やむを得ず(ここからが立派!)、生まれたままの姿で特設ステージに立ち、「エーデルワイス」を英語で歌ったのです。

ちなみに、今から4年ほど前、機会があって、かの紀尾井ホールで同じ曲を英語とドイツ語で歌いました(「山季布枝とその仲間たちのコンサート)。その最中に、突然、あの醜態、もとい堂々たる姿に思い至り、赤面、もといもとい、それでも立派に(?)歌い上げることが出来たのです。日ごろ、風呂場での声楽の練習の成果がこんなところで出たのかもしれません(笑)。

モンテネグロでは1878(明治11)年、この国が独立したときに日本が真っ先に国家承認をし、明治天皇から大きな象牙のワシ像をもらったというので、元王宮の門の中でそれを見せてもらいました。

モスクワのクレムリンにある旧武器庫にも、こちらはニコライ2世の帝位就任を祝う贈り物だったでしょうか、全く同じものがありました。

モンテネグロの国家承認はいささか早すぎるくらいだったようですが、もう、日本政府は世界を相手に外交を行い、法と正義を唱える近代国家たることを示さんとばかりの動きをしたようです。おかげで、そのときもモンテネグロの人に厚遇されました。明治天皇に感謝!

クロアチアの首都ザグレブには1994年に行きました。難民を助ける会からは今、理事長になっている長(おさ)有紀枝さんが駐在しており、「アジア人がヨーロッパ人の救援に当たるのは初めて」とも言われました。長さんはこの経験からスタートし、アカデミックな研鑽を積み、2007年に東京大学から博士号を授与され、その論文をもとに著書に『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』を東信堂から上梓、2009年4月より立教大学大学院教授を兼務しています。

閑話休題。ボスニアヘルツェゴビアの国旗の特徴は、なんといっても星です。ヨーロッパの国旗には星がないのが原則です。わずかにこの国とその後に独立したコソボ(セルビアとその後ろ盾とも言うべきロシアの反対で国連には未加盟。日本政府は国家承認済み)の国旗のみです。ともに、独立に際してEUが大きな支援をしたことから、EU旗にある青い色と星を取り込んだデザインにしたのです。

逆に、EUは創設時にどの加盟国の国旗をも連想させないデザインということで、星を選んだのです。

旧ユーゴスラビアを構成していた新しい7つの国はおおむね、復興を終え、今は懸命に国の発展を目指して歩み始めているところです。それぞれの「美人」が「薄命」とはならず、「国づくり」に成功することを期待し、祈念しています。

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