ルーマニア – 紋章を切り抜いた国旗の物語(前編)


1965~89年までのルーマニアの国旗。

1889年に独裁者チャウシェスクを追放した革命から20周年になったことを記念して、2009年12月21日に首都ブカレシュティ(英語ではブカレスト)で、さらなる改革を求めて開催されたデモでは、20年前に社会主義を象徴していた紋章を切り抜いて用いたその国旗が持ち出されました。

冒頭に一言、お断りを申し上げます。今回は少し長くなりますので、前・中・後の三篇にわけて掲載し、また、国際政治に関わる部分が多いので、いつもの「です」調ではなく、「である」調で書かせていただきます。

朝日新聞(2010年8月19日付)に、ルーマニアとロシアが互いに外交官を追放しあったという、以下の記事が掲載されていた。

【モスクワ=副島英樹】ロシア連邦保安局(FSB)は16日、ロシアの軍事機密情報を入手しようとしたスパイ容疑で、ルーマニア対外情報局の職員を現行犯逮捕したと発表した。職員はモスクワにあるルーマニア大使館の1等書記官として働いていた。ロシア外務省は外交ルートを通じてルーマニアに抗議。職員は「好ましからざる人物」に指定され、国外退去となった。インタファクス通信によると、これに対してルーマニア外務省は17日、対抗措置としてロシア大使館の1等書記官に国外退去を命じた。ルーマニアの情報局職員はロシア人から情報を得ようとしたところを現行犯逮捕され、スパイ用の装備一式が押収された。

こうしたスパイ合戦は世界中どこでもあることで、ましてロシアや東欧に関心を持つ専門家や事情通にとって、特段、目新しい話ではないはずだ。しかし、この記事の内容は、ルーマニアが置かれている国際環境の複雑さと厳しさを今さらながら顕著に示している出来事なのである。

現在の正式な国名はルーマニア語によるRomânia(ロムニア)。英語ではRumaniaまたはRomaniaと表記される。ローマからははるかに遠いが、この国名の原義は、「ローマ人の国」。106年にローマ帝国に征服され、以後、160年余り続いた支配の間に同化が進み現在のルーマニア人のもととなったという説明がこの国では広く行われている。

周辺がスラブ系の人々に囲まれているといってもそこは陸続き。ロシア国民楽派の作曲家ニコライ・A・リムスキー=コルサコフ(Николай А. Римский-Корсаков、1844〜1908年)の姓の前半はまさに「ローマ人」。ロシア最古の都ノヴゴロド(サンクトペテルブルクの南約180㎞)近郊の軍人貴族の家庭に生まれ、後にサンクトペテルブルクの海軍兵学校を経て、ロシア海軍でも活躍した人。この姓自体がロシア文化に残るローマへの憧憬の象徴のようなものであると言えよう。

しかし、ルーマニア地方ではその後、否応なく、周辺を取り巻くスラブ系やハンガリー人との混血が進んだ。ルーマニアは、中世以降においてはロシア、オーストリアやドイツ、そしてオスマン・トルコという3大勢力のプレッシャーを受け、他方、地理的には周辺のほとんどをスラブ系の民族に囲まれている位置にある。また、西にはハンガリー系の住民を抱え、東にはルーマニア人が大半を占めるモルダビアが独立国として存在し、その先には沿ドニエストルという、国際社会には承認されざるロシア系の“国”があるという中で、この国が諜報に力を入れることは、国の安全を図る上で必須の手段であるはずだ。

ルーマニアの将来は、アメリカ、西欧諸国との絆の強化を基盤とする国家運営の妙が発揮されなくては、また再び諸課題に翻弄されざるを得ないのではないかと思う。そして、社会主義体制の崩壊からこれまでのルーマニアにおける政治と経済の20年間続いてきた混迷を現状で見る限り、今後には少なからざる危惧を感じさせられるのである。

チャウシェスク独裁政権崩壊から20年

1989年12月末のルーマニアの政変は、冷戦崩壊による東欧諸国の独裁政権が相次いで潰え去る過程で、不幸にも唯一、武力衝突を伴ったものであった。ニコラエ・チャウシェスク(1918~89)は1965年にルーマニア共産党書記長に就任以来、1967年には国家元首ポストである国家評議会議長に、1974年の大統領制導入と共に初代大統領となるなど、次第に強固な権力体制づくりを図った。やがてエレナ夫人とともに、家族と縁故者を重用する独裁体制を構築、長期にわたり権勢をほしいままにした。

冷戦下にあって、この独裁者は、微妙な舵取りでモスクワとは一線を画し、ソ連の東欧陣営の運営に必ずしも従順な態度ばかりではなかった。68年のチェコ事件では軍事介入に関わらず、西側がボイコットした80年のモスクワ・オリンピックには参加したが、東側が報復的にボイコットした84年のロサンゼルス・オリンピックにも参加した。こうした舵取りぶりに西側が好感を持ったのは当然であった。同時に、国内におけるチャウシェスクの求心力や人気は少なくとも表面的には一層高まった。自身と家族の豪華な暮らしぶりとネポティズムによる、「王朝」と呼ばれるほどの権力体制を確立した。筆者は、1980年代の中ごろ、次男ニクと東京で会ったことがあるが、その尊大な態度と随員や駐日大使館の人たちの崇敬・平伏ぶりに異様なものを感じ、驚嘆せざるを得なかった。

ニクは当時、モントリオール五輪(1976)金メダリストとして世界にその名を轟かせた「白い妖精」ナディア・コマネチに交際を迫ったが、コマネチはモスクワ、ロサンゼルスの両五輪では目標を達し得ず、鬱々とした時期であった。自身のコーチ解任という憂き目にもあった。そうした流れの中で、コマネチはベルリンの壁崩壊からまだ10日あまりしか経っていない1989年11月21日、列車でティミショアラに向かい、ハンガリー人たちの手を経てハンガリーに越境、そこで逮捕されるも、脱走し、ウィーンを経てアメリカに亡命した。その1ヶ月後、ティミショアラでの抗議デモが、チャウシェスク独裁政権の崩壊をもたらした革命のきっかけになるとは、おそらく彼女も予想できなかったのではあるまいか。

チャウシェスクは冷戦期にあって西側の期待と国内での支持とを背景に、この頃は北朝鮮の金日成やリビアのカダフィ、そして中国とも友好関係を進めていた。

冷戦下にあってもルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくてもある程度独自に外貨を獲得し、エネルギー資源の確保が可能だったこと、また、セクレタリア(秘密警察)を活用した政治運営が、こうした舵取りの維持に役立っていた。ルーマニアでは、東欧ではアルバニアとともにヨーロッパで2カ国だけ、カラーテレビ放送がなく、ドラマではラブシーンはカットされるという禁欲的な放映しか行われていなかった。抑圧された日常生活の中で、人々は「ブラ」の名前の少年を主人公にした「バンク(ロシアのアネクドート)」を連発して、憂さを晴らしていた日常であった。

ソ連はルーマニアを「兄弟国」言って、あれやこれやと近づいてくる。チャウシェスクはソ連を「友好国と言って、適度な関係を保ちつつも時々、距離を置く。困るんだよな、兄弟って。自分で選べないものね、恋人と違って。」と言った。

この「バンク」と同様のものが当時の東欧諸国でよく聞かされたが、その多くはソ連に隣接ないし近接することから来る脅威や時の自国の為政者への不満を述べるものであり、ルーマニアの微妙な位置から発したものも多い。特に、ソ連ではアネクドートの質が実に高く、宴席などでの披露に党の幹部でさえ、苦笑を禁じえないようなものもあった。それが表現の自由が一段と進んだ今のモスクワでは、もはや「驚嘆するほどの冴え」を味わうことは期待できなくなった。これを惜しむのは筆者だけではあるまい。それがルーマニアでは依然、「バンクは今でも盛んだよ」と大使館員や日本からの駐在員から聞く。そこに、未だこの国の人たちの苦境は終わっていないのではないかと、ささやかな不安を感じることがある。

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