旧ソ連の国々① – グルジア、この小さくても大きな国

今からおよそ20年前、1991年12月25日、超大国といわれたソ連が消えてなくなりました。

15の元ソ連構成国は、急速に親欧米機運になったり、とりあえず共産党から名前だけを変えた旧態依然たる独裁的な個人が政権を担う国なったりして、ただただおろおろしているのではないかと思われる小国もあったりして、ソ連崩壊後の進路は分かれましたが、多くは荒波の中での厳しくも険しい国家運営の道を歩みました。

黒海とカスピ海に挟まれたグルジアは親欧米機運になった典型的な国です。面積7万㎢弱、人口4百万余という小さな国ですが、2012年初場所で言うと、黒海、臥牙丸、栃ノ心の3人もがグルジア出身の幕内力士として、日本ではわりによく知られている国です。長寿国としても有名で、首都トビリシの公園で見ていると、元気な高齢者が次々と気持ちよさそうに散策しているのに出会いました。私が特に印象に残っているのは、縦笛を2本同時に口に抱え、軽快な曲にハーモニーをつけて演奏する芸人がやってきたことです。青少年時代にクラリネットやフルートに親しんだ私はこれだけで、グルジアが大好きになってしまいました。

しかし、ロシア人居住者の多い南オセチア、アブアハジアの領有問題でロシアと対立、私が宿泊した一番大きなホテルは難民収容センターとなったままの映像をつい最近テレビで見たのは悲しい現実です。

余談になりますが、サアカシュビリ(グルジア大統領)、シュワルナゼ(元ソ連外相、元グルジア大統領)、クナーゼ(元ロシア外務次官、日本研究家)といった具合で、グルジア人の名前には「ビリ」とか「ナゼ」の付く人が多いのです。ほかにもサッカーのイアシュヴィリ、栃ノ心のゴルガッゼ(本名)、柔道のチョチョシヴィリ、バレエのアナニアシヴィリやニオラーゼ、政治家のオルジョニキーゼ…などの名前が浮かびます。

また、ハチャトリアン(作曲家)、スペンディリャン(同)、ミコヤン(ソ連副首相)、サロヤン(アルメニア系米国人作家)など「ヤン」が付くとアルメニア人といわれています。ただ、アルメニア人の中は出自を明確にしないまま世界各地に移住・離散して、姓を省略したりしています。私の友人のロシアのサルキソフ元ロシア日本研究協会会長は祖先はサルキアンだった人です。また、フランスの俳優で歌手としても人気者のアズナブールは本来、アズナブリアンです。1995年以来、アズナブールはパリ在住のままアルメニアの駐ユネスコ大使を務めています。また、2009年2月15日、ロシアのインタファクス通信によると、アルメニアの政府は、アズナブールを同国の駐スイス大使に任命することを決定したようですが、実際にどうなったかはつまびらかではありません。

20世紀を代表指揮者の一人ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89)はオーストリアのザルツブルクの貴族の家庭で生まれ、今でもその豪華な邸宅は観光客の訪問が引きもきりませんが、これまたザルツブルクやウィーンでもいろいろな人に訊いたのですが、「おそらくは先祖はアルメニアからその後ハプスブルク家の領内になった地域に移住し、そこで功績を挙げて貴族になったのではないかなぁ」という意見が多かったです。いかにも多民族国家オーストリア・ハンガリー帝国時代の話のように思いました。

このように、旧ソ連の15カ国では、民族も、言語も、そして名前や顔かたちもずいぶん違う人たちが1つの国家を形成していました。
スターリンには「ビリ」も「ナゼ」も付きませんが、グルジアの出身、そんな小国の出でありながら、ソ連共産党のトップとなり、独裁者になったというのは今にして思えば、よくも悪くも、本人がすごい実力者だったのでしょう。おかげで、グルジアのワイン「キンズマラウリ」はグルジア出身のスターリンご愛飲ということでいっぺんで世界的に有名になりました。甘口で飲みやすいのですが、その色がいかにも「血を好んだ(?)」かの独裁者のイメージで、必ずしも私好みではありません。


2004年1月の「バラ革命」以降のグルジア国旗

1918~21年まで用いられ、ソ連崩壊後から2004年1月の「バラ革命」までのグルジア国旗。

1950年から91年のソ連崩壊までのグルジアの国旗。

ところで、肝腎の国旗の話です。

1918年からソ連に編入される1921年までの3年ほど、グルジア民主主義共和国といった時期がありました。その時期にもワインレッドの国旗が用いられていました。当時行われた国旗コンペで選定されたデザインでもありました。ワインレッドは過去および未来の「佳き時代」を、黒はロシアによる圧制を、白は平和への希望を表すとされていました。

1999年にグルジアの議会は現在の国旗を採択しました。500年前に遡ることのできる伝統を有する旗です。しかし、当時のエドゥアルド・シェワルナゼ大統領(元ソ連外相)の拒否権行使により実現に至りませんでした。しかし、ミヘイル・サアカシュヴィリ現大統領らによる「バラ革命」でシェワルナゼが辞任に追い込まれた直後、2004年1月14日に議会でこのデザインが再び可決、国旗として採択されました。

それはさておき、そのキンズマラウリに限らず、グルジアの製品、今ではモスクワはもちろん全ロシアでいっさい輸入禁止です。このためグルジアのワイン工場はあいついで閉鎖、今ではワインの全輸出量が7分の1になってしまったそうです。

ソ連邦を離れてからのグルジアは欧米からの帰還者たちが中心になって急激に欧米、とりわけアメリカと親密になりました。小学校1年生から英語が必修というほどアメリア志向です。

こうしたグルジアの内政外政はモスクワの不興を買い、グルジア国内の南オセチア、アブハジアの扱いをめぐっての対立は、2008年8月、ついに軍事衝突となり、北京五輪の開会式に出席したプーチンがそのまま戦争を指揮するため現地に直行したのは印象的でした。

グルジアはCISから離脱し、何とかしてNATOへの加盟を果たすことを求めているのです。

依然、旧ソ連の盟主という気分をぬぐいきれないでいるロシアにしてみれば、この似ても似つかない国旗を掲げるグルジアは、「獅子身中の虫」のような存在なのかもしれません。

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