20世紀の大転換・ソ連崩壊物語


ソ連の国旗

その人生で3つの大きな出来事を挙げよと言われたら、私、タディはごく個人的にですが、東京五輪(1964)、昭和天皇崩御(1989)、そしてソ連崩壊(1991)を挙げたいと思います。敗戦時(1945)にはあまりに幼く、何ら記憶にありません。月面着陸(1968)はあまりに途方もなく、親・兄の死去はあまりに個人的にすぎませんから省きます。

東京五輪は日本の復興の象徴という、国家としての自信回復の機会だった、国民全体で喜びあいました。

北方4島の全面返還を求め続け、ソ連とのことに大きく関わりながら、正直言って、私はほとんど最後の段階まであの国の崩壊を予測できませんでした。フランスの、というより世界的なソ連研究家のエレーヌ・カレーヌ・ダンコースさんは、おそらく最も早い段階で、理論的にソ連崩壊を予測した一人でしょう。1987年に、滋賀県大津市で開催した「国際シンポジウム’88」に向かう新幹線の中で、彼女はしきりにそのことを私に理解させ同感を得ようとお話し下さったのですが、浅学不才のわが耳にはすんなりとは入りませんでした。大津プリンスホテルでの本番では私がモデレータを務めたのですが、ようやく最後になって、「う~ん、そういうこともありなのかなぁ」と思う程度だったことを、今更ながら恥じ入ります。そのくらいソ連は強大でしたし、ソ連共産党や情報機関KGBは怖いほどしっかりと機能していたように思っていました。
1991年12月、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が消滅しました。そして旧臘25日で満20年が経過したのです。

1991年12月25日の夕方、といってもまだ日は翳っていませんでしたから2時くらいだったのかもしれません。モスクワの赤の広場に面しクレムリンの一番大きな国旗掲揚塔から、赤地に鎌とハンマー、それに黄色で縁取られた赤い星のソ連の国旗が降納され、白青赤の横三色旗であるロシア連邦の国旗がするすると上がっていったのでした。この日、ソ連最後の大統領ゴルバチョフは「独立国家共同体(NIS)の結成に伴いソ連大統領を辞任する」とテレビを通じて発表しました。要するに、ソ連を構成する主要な4つ、ロシア、ウクライナ、白ロシア(現ベラルーシ)、カザフスタンの大統領が話合って、ソ連からの離脱を決定し、ゴルバチョフには場がなくなったということなのです。かくして、日本の60倍もの面積(全地球の陸地面積の6分の1)があったソ連は15の共和国に分離して、それぞれが独立したのです。ソ連がこれまでに締結した条約、国連安保理常任理事での地位、在外公館の施設、核兵器はすべてロシアに引き継がれましたが、その面積は日本の40倍までに減少したのでした。

その後のロシアは経済の大混乱で今でも「あの乞食のような生活は二度としたくないし、思い出したくもない」と言う国民が大勢います。そこに病気がちで時に酩酊する姿まで外国の首脳やメディアにさらすようになったエリツィンの残像がダブって、強いロシア、そのリーダーとしてのプーチンへの支持基盤ができたのですが、今回(2011年12月)の国家院(ドゥーマ)議員選挙の不正をきっかけに、2000年以降、最大規模の反政権デモが起こるなど、それもまた揺らいでしまったのです。

私は1968年11月に初めてモスクワを訪問しました。爾来、少なくとも100回以上訪ソ(露)しました。最初の頃に持参したお土産は100円ライターでした。「こんな便利なものがある」と感心され、感謝されたものでした。

「どうやって詰め替えるのか」と何度も訊かれたのを覚えています。生活用品が乏しく、「使い捨て文化」のないソ連ではなんとも贅沢なものに見えたみたいでした。

「女性にはパンストが」というのも日本から訪問するビジネスマンの「常識」でしたが、これは「婆さん」以外にあげると効果がありすぎて危険だった(ようです)。

「石鹸とトイレットペーパーは必携」というのも訪ソ時の「常識」でした。アワが出ない石のような石鹸ではこっちがアワてたほどです。

お風呂の栓も必需品でした。なぜか、一流ホテルでも栓がないことが多かったからです。

大抵は、ゴルフボールで代用しましたが、あるとき、某有名国際政治学者は「ゴルフボールでは重い」と称して、卓球の白い球を持参したのです。結果は想像にお任せします。また、なぜか便座がはがされていて、「用足し」に苦労したことも何度かありますが、この後は想像しないでおいてください。ソ連崩壊直後は、マールボロのカートンが、ルーブルはもちろん、ドルよりも有効でした。道端でこれを振りかざすと、3,4台の自動車が急停車してくるのです。運転手同士が言い争いになり、わが師・末次一郎先生と別々の車に乗って同じ目的地に行ったこともあります。

ソ連という国は、宇宙ロケットは作れても生活用品の生産は実に苦手な国でした。それが 74年間も続くと、DNA化でもしたのか、ロシアになった今でも、国民的体質として基本的に残ってしまったようです。 共産主義志向という計画経済が、どうにもならない官僚主義と非能率・非効率、重厚長大産業を生んだのです。また、核兵器やミサイルの開発や維持を始め、巨大な軍事費の負担は重圧として経済を圧迫しました。大国主義でアメリカと冷戦という名の対抗を続け、加えて、連邦内の他の14の共和国や東欧支配の無理がたたったのです。

70年代までは、ホテルのラジオでも、今の北朝鮮がおそらくそうでしょうが、自国のモスクワ放送しか入らない構造になっていました。要するにラジオには電源と音量しかスイッチがなかったのです。やがてそれが大幅に「改善」されて、世界情勢が誰にでもわかるようになり、特に、1985年からのゴルバチョフ時代になるとペレストロイカ(抜本的改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められ、急速な新思考外交とともに、国民の意識が激変しました。そこに持ってきての、東欧諸国の相次ぐ変革と離反、91年8月の、ソ連守旧派によるクーデタ―未遂事件、エリツィンを中心とするロシア国内での民主勢力への支持基盤の拡充などにより、共産党一党独裁のこの超大国はついに綻びを隠せなくなりました。

要するに、ソ連は、冷戦という第3次世界大戦に敗れたのでした。最大時、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、キューバなどに「東側」の「首領(ドン)」として勢力を張ったソ連は、東欧への影響欲の喪失、ドイツの統一、バルト3国の勢力離脱を経て、20年前の12月末、ついに崩壊したのでした。

私の青年期には、ソ連の国旗はアメリカの「星条旗」と世界を2分する勢いを持って翻っていました。ソ連崩壊から20年、最近では女子学生に「先生、昔、ソ連って国があったんですよね」とまで言われるほど、影が薄くなりました。その一声に、諸行無常をひとしきり感じたタディなのでした。

メニュー