慶応義塾の三色旗

「北朝鮮の国旗はすばらしい、という吹浦先生のブログを読みましたが、慶應義塾の校旗とそっくりじゃないですか?」という質問を、滋賀県長浜市在中のW氏からいただきました。一昨年でしたか、4回ほど滋賀県内で世界の国旗について講演する機会がありましたが、長浜市での私の話をお聴き下さったそうです。

なるほど、云われてみれば似てますね。ペンがなければ確かに…。
私は早稲田の出身なので(慶應にガールフレンドの一人や二人はいましたが エヘン!)、慶應義塾大学とはあまりご縁がありませんでしたので、その校旗のことはいままでほとんど気にしていませんでした。所用でさきほど自由が丘に出かけましたが、2つの内科医院がペンの部分を省略した、青赤青の横三色のマークを電柱の看板に描いて、「我こそは慶應の医学部出身であるぞよ」と胸を張っている風情でした。どこの医学部であろうと、名医は名医、ヤブはヤブ(「蕎麦屋は藪がいい」は私語)なんですがね。

閑話休題。塾の公式ページを見、まずは早速、慶應義塾大学広報部に問合せてみました。

HPにはこうあります。( )内は吹浦。

慶應義塾の校旗、通称「塾旗」は三色旗と呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない。それに、色彩についても、フランスのそれが特に平等とか、自由、博愛とかを象徴するというほどの深い意味は、別に塾の旗にはないようで、かつて、昭和5(1930)年に第1回の連合三田会が催された折、席上で語られた元塾長鎌田栄吉の談話に

「私が塾長に就任致した当時の事で明治31(1897)年の頃と記憶する。…其の頃丁度又塾の旗が必要だと云ふので兎角の考案も出たが、私は矢張り前の幔幕と同様に浅黄と紅を取り合せたものがよからうと申したので、夫れにペン章を付けて今現に使用してゐるやうな三色旗が出来た。

とあるように、当初は単に倹約のために工夫されたものにすぎず、それがいつか塾旗に定められるにいたったというわけである。ただ、制定の年代については多少不明確な点があって、次の鎌田の談話にある明治31年ごろより数年まえにも、すでに塾旗についての記録が存し、色彩こそ不明ながらペンの記章を付して3段に色分けした旗の絵も見られる。すなわち、明治27(1894)年11月26日に(日清戦争の)旅順口陥落の祝賀として塾生がはじめてカンテラ行列というものを行った際、このことが『時事新報』の28日付の記事に取り上げられて、その行列中に塾旗のひるがえっていたことがしるされ、さらに同年12月刊の『風俗画報』第82号には絵入りでその模様が報じられているのである。

こうして、三色旗はとにかく浅黄と紅を取り合わせたものとしておこり、明治30年前後から使われだしたらしいが、それが、色彩については、赤はまだしも、青は濃紺か紫に近く、長年の間にかなり変化し、しかも多様になって、塾のスクールカラーとして広く用いられている。しかし、塾旗として用いる場合、形も色も規格があまりまちまちであるところから、昭和39(1964)年2月14日付で「塾旗の基準について」として塾旗の寸法と色・ペンの型・三色旗の割合とペンの位置がはっきりと定められた。

公式ページでの説明としては物足りないし、浅黄がなぜ、紺ないし青に変わったのかの説明がまったくされていないと、私は受けってしまいます。

それはともかく、現在の「慶應の三色旗」のいいところにも触れましょう。赤と青をきちんと、色標で決めていることです。早稲田、立教、東京の各大学などでもそうして厳密に校旗の色を定めていますが、慶應はHPに「ブランドカラー表現システム」という一項を設け、青は「DIC N-899を標準色とし、プロセスカラーならばC100 M90 Y0 K45、ウェブカラーなら#000055、マーキングフィルムなら3M Scotchcal Film JS-1605を近似色とする」とし、赤は、それぞれをDIC F78、C0 M100 Y90 K15、#CC000、3M Scotchcal Film Js-6217と発表しているのです。

ついでながら、このCMYKというのは色に関するいささか不思議な表示で、Cはシアン、Mはマジェンタ、Yはイエロー、Kはクロ(黒)の略号です。日本語の黒まで入っているのは、青Blueとの混同を避けるためです。

また、マジェンタというのは、要するに赤なのですが、これには19世紀、イタリア統一戦争時に関わる歴史的ないわれがあります。
「時は元禄15年…」と行きたいところですが、「時は1859年6月4日」、すなわち赤穂浪士討ち入り(1703年)の156年後、北イタリアのマジェンタ郊外でヴィットリオ・エマヌエレ王率いるサルディニア軍と皇帝ナポレオンⅢ世指揮するフランスの連合軍とフランツ・ヨゼフ皇帝率いるオーストリア軍との一大決戦が行われました。これがマジェンタの戦い(La Battaglia di Magenta)です。すさまじい流血を経て、サルディニア・フランス連合軍が勝利しました。そこで、たまたま、この年に発明された赤い染料に血の色ともいうべきマジェンタという名前がつけられました。この勝利を記念してこの年に完成した通りがマジェンタ通りと命名されたのでした。

ナポレオン3世は叔父ナポレオン1世の人気にあやかって多くの戦争を行いましたが、同時に、パリの市街地を大いに整備し、このため、同じイタリア統一戦争中の6月24日に行われたソルフェリーノの戦いにちなんだソルフェリーノ通りもあります。ソルフェリーノの戦いの2日後、スイスの青年アンリ・デュナンがたまたま隣町のカスティリオーネを訪れて敵味方の区別なく救護したことが、国際赤十字の濫觴です。

もっとも、マジェンタについては、この戦闘で活躍したフランスのズワーヴ兵が着用していた軍服が赤紫色であり、その色をマジェンタと呼ぶようになったという説もあるようです。

またまた話が横道にそれました。

W氏からの質問は、北朝鮮の国旗との関係。もちろん、私は国旗研究者として公平に見て、北朝鮮の国旗のほうが、デザイン的に優れていると思います。青と赤という補色的な関係にある色が直接、大きく接し合うというのは決して美しいものではありません。原色と原色がくっつくというのは中世以来の紋章学ではこれはタブーのようなものです。その間に金属(金、銀、黒、白、黄色)を挟むようにすべきだというのです。

ところが、北朝鮮。青と赤は韓国の太極旗(テグキ)と呼ばれる国旗の中央の巴も上から赤と青であるように、古くから朝鮮民族の色とされてきたものです。ですから、青と赤は韓国、北朝鮮両国の国旗に用いられている色ですが、北朝鮮の国旗の場合、2つの色の間に細く白い線を入れているのがすばらしいではないですか。

少々、慶應への対抗意識がですぎてしまったらご寛恕ください。

ただ、もしかして、この北朝鮮の国旗、あまりにデザイン的に優れものなので、慶應義塾の卒業生がデザインしたのではないかなと、今ふと思うのです。

というのは、日本の敗戦で朝鮮の独立が回復(光復)したのが1945年8月15日、その直後の10月に北朝鮮各地で行われたソ連軍(赤軍)歓迎式典では、写真のように太極旗が掲げられました。

朝鮮半島は北部をソ連軍が、南部をアメリカ軍が占領し、北部では社会主義者が中心である北朝鮮人民委員会ができ、これがのちの朝鮮民主主義人民共和国の基盤となりました。

光復から3年目の1948年8月15日、半島の南半部で大韓民国が建国され、太極旗を国旗として制定し、北半部では約3週間遅れて、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、こその式典で藍紅色旗(람홍색기발 ラモンセッキパル)と呼ばれる弦愛の国旗が発表されたのです。このあまりに短期間に、すばらしい旗が出来たことについて、3年ほど前、私は北朝鮮政府に問合せたところ、歴史研究所から朝鮮総連を通じて回答が寄せられ、「今となってはデザイナーの名前はわからない」というものでした。そこで、私は上野の美術学校か、遠くモスクワにでも留学してデザインを学んだ人かなどと想像をめぐらせましたが、もしかして、慶應義塾の出身者かもしれない、と思うようになりました。

どなたか、公式非公式にそのあたりについての情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

なお、1992年10月22日、北朝鮮政府は国旗の製作と使用・掲揚・保管方法を定めた「国旗法」を制定・公布(その後、数次の改正)している。特徴的なのは、赤い星と赤い帯との間には細い隙間があること、垂直掲揚する場合には、星の1つの角を上向きになるよう別注の旗を使用することでしょうか。後者は、リヒテンシュタイン国旗の公冠を90度回転するなど、ほかにも例があります。

現在の政府当局は「赤地の部分は党と領袖への朝鮮人民の忠誠心、社会主義的愛国主義、百折不撓の闘争精神、一心団結した不抜の力を象徴する。白い円と白地の部分は、朝鮮民族が単一民族であり英雄的人民であることを象徴する。二つの青地の部分は、反帝・自主の旗のもとに、世界の革命的人民と固く団結して、平和と民主主義、民族の独立と社会主義偉業の勝利のために断固たたかおうとする朝鮮人民の熱烈な志向を象徴する」と国旗を説明しています。

慶應の校旗も、いまさら青と赤の間に白い線を入れるわけにもゆかないでしょうし、いっそ、黄色(金色)の線でも入れて…余計なおせっかいですよね。

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