国旗か、カレン族の旗か? ミャンマーの少数民族を迎えて


カレン族民族解放軍(KNLA)の旗

朝日新聞の夕刊で、昨日(2012年1月16日)から、「安住を求めて 第三国定住の現場で」という連載が始まりました。その1回目は、こんな書き出しです。

<「犬のほえる声がしても、身構えなくなった」
ミャンマーからの第三国定住の難民として三重県鈴鹿市の椿地区で暮らす男性(34)は語った。少数民族カレン族の出身。政府軍が故郷の村に来た時、犬がほえた。日本に来てから、当時の恐怖心がよみがえることが次第に少なくなった>。

ミャンマー(ビルマ)では、確実な自治を求めるカレン族と、ビルマ族を中心とした政権との間で60年以上に亘って内戦が続いてきました。私のカレン人の友人等の話によれば、この記事にある「カレン族というだけで射殺され、女性は強姦されることがあったという」というのはごくありふれた事実だということです。

日本政府は2010年度から3年間で90人をミャンマーとタイとの国境地帯タイ側にあるメラ難民キャンプから受け入れる計画を試行的に実行中です。2010年秋、その第1弾としてタイとの国境を越えて逃れたカレン族の人たちのうち5家族、27人の来日が認められました。あまりに少ない数と私は批判してきましたが、ゼロよりはましですし、ミャンマー情勢の推移によってはどうなるかわかりませんので、今後に期待しましょう。日本としては1978年にインドシナからの定住難民を受け入れ始めて以来の、第3国定住難民の受け入れです。今回のカレン族の難民たちは半年間の日本語研修を終えてから、2家族12人が千葉県に、3家族15人が三重県の鈴鹿市に移って、男性たちは農業法人でシイタケの菌床を袋から手早く取り出し、並べていくなど、「職場適応訓練」として働き始めました。

2011年早々、武装勢力であるカレン民族同盟とミャンマー政府は初めて停戦に合意しました。日本国内にも在日カレン民族連盟(KNL)があり、しばしば高田馬場周辺で集会を持っての急速なミャンマー政府の改革路線を疑いの目ではあれ、注意深く見守っています。高田馬場駅前には6軒もの「ビルマ」料理店があり、私も行ったことがありますが、どのお店にもアウンサン・スーチーさんの写真が大きく飾られているようです。

報道によれば、<昨春から5人の子どもたちが鈴鹿市立椿小学校に通い始めた。学校の廊下には各国の旗、玄関には英語や中国語などのあいさつ文が張られている。旗をミャンマー国旗にするか、あいさつをカレン族のものにすべきか。伊藤嘉昭校長は難民の母親たちに尋ねた。「カレン族だからカレン語とカレンの旗がいい」。

廊下の壁に、カレンの旗と、「ウォラーゲー」(おはよう)、「ターブル」(ありがとう)のカレン語が加わった。難民の子どもたちが自ら書いた>。

早速、椿小学校に電話して担当の宮崎みさ教諭にお話を聞いたところ、この小学校は国際的な活動にとても力を入れており、英語を必修としているそうです。

「PCを利用して国連加盟国193カ国の国旗を作成し、それに日本語と英語で国名を付けました。カレンの旗は、国連加盟国の国旗とは別に、学校の玄関にオリンピックや赤十字の方などとともに張っています。1月28日に文化祭を行いますから、いらっしゃいませんか?」

鈴鹿市と隣の桑名市は私の親友だった今は亡き高野國夫くんの活動拠点、お墓参りを兼ね、急遽、見学に行ってくることにしました。詳しくはまた報告します。

ところで、ビルマは第二次世界大戦が終わって3年ほど経った1948年、イギリスから独立しました。この国には約3分の2を締めるビルマ族のほかいくつもの少数民族がおり、いわゆる多民族国家です。そのほとんどがラングーン(現ヤンゴン)のビルマ政府との平和共存を志向したのですが、カレン族は、分離独立を強く求めて対立してきました。特に、ネ・ウィン将軍が実権を掌握した1962年からは、カレン族をはじめ、少数民族による独立運動は国家への反乱として厳しく弾圧されました。

カレン族はほとんど終始、苦戦を強いられましたが、独自に「国旗」を採択し、将校を養成する士官学校を持ち、徽章や制服はもちろん、将校や兵士の階級制度などもあり、国際法に則り、正規軍としての体裁を整えています。

実は、カレン民族解放軍族の中に日本人傭兵高部正樹さんが加わっていたことがあります。関係者にはよく知られている話しです。高部さんの『傭兵の誇り』によれば、日本人義勇兵はほかにも何人もカレンの部隊に参加していたようです。

カレン側もこれを多とし、2001年5月には戦死した3人の日本人義勇兵を記念する碑が建てられ、式典が挙行されたとのことです。碑文には「カレン民族独立を志し、少数民族の人間としての尊厳のために、青春の情熱と命を捧げた日本人自由戦士 ここに眠る』と刻まれている、とこの本には書かれています。

難民の第3国定住を成功させるには、近隣の人々の理解、地域の受け入れ態勢の整備、関係するNGOの役割が重要かと思います。日本がアジアの一員として、また、世界の一員として応分の役割を担うべきだと私は確信します。そして難民の受け入れは基本的に人道的な配慮でなさるべきだと思いますが、それが共生という隣人愛に基づく視点からの出発であるのは当然ですが、成熟した日本社会の実現にとっても、とても有効なことであると思います。

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